それは紅葉ひらめく秋のある日。
もうすぐ冬が近づいているためか、氷の妖精であるチルノは幻想卿中を元気に、それは元気に飛び回っていた。
湖を幾度も周回し、竹林を通り抜け、妖怪の山を飛び越える。
天狗ほどの音速とまではいえないものの、水を得た魚のように元気に、速く、そこら中を飛びまわる。
神社の賽銭箱を叩いて巫女を驚かせよう。
魔法の森に雹(ひょう)を降らせたらレティなんか一足早い冬の訪れに慌てるんじゃないかしら。
そうだ!その辺の妖精・妖怪のスカートをめくったらびっくりするんじゃない?
どんなイタズラをしようかしら。
そんな思いに胸を躍らせながら、今回は魔法の森の店主にしようと決めたのだった。
「遊びにきてやったよ~」
香霖堂と書かれた看板の下の扉など目もくれず、チルノは縁側から堂々と室内に入っていく。
そこには布団が一組。
枕もろとも掛け布団の中に入っており、大人1人分のふくらみがある。
瞬時にそれが香霖堂店主だと判断したチルノはクスクスと笑いを浮かべながら、勢いよく布団の上に飛び乗った。
「まだ寝てるー!!寝ぼすけね!」
今はもう日が高く、寝ているのは遅すぎる。
起きて遊ぶかイタズラの標的になってほしいチルノは、馬のように布団を蹴飛ばしてみるが音沙汰がない。
布団の下に居ることは分かっているのに、こんなにもジッとしているようではつまらない。
「…? ねぇどうしたのよ? …元気ない?」
「ちょっと…体調が悪くて…」
やっと布団から顔を出した森近霖之助の顔はひどく青く、生気がない。
今は寝ていたいんだ。そう言おうとした時には細腕に頼りない力こぶを浮ばせながら自信満々にこう言った。
「おお!じゃああたいが看病してあげる!」
「帰って…って聞いてない…」
弱弱しい霖之助の声が聞こえていないのか、チルノは霖之助の上に乗ったまま足をバタつかせている。
ごっこ遊びと間違えているのだろうが、体調の悪い霖之助にとってはいい迷惑である。
…が、そんなチルノを追い払えないほど弱っている霖之助にはどうすることもできない。
「んじゃー寒い?暑い?」
「いや…熱はないみたい…で?」
ピトリ
ひとまず気の済むまでやらせよう。そう諦めていると、額につめたい感覚と、目をつぶったチルノが目の前にいることに思考が停止してしまった。
どうやら額で熱を測っているらしい。
「んー?」
「…チルノ?」
「暑いよやっぱり!風邪ね!夏風邪はバカなのよ!林之助はバカなのね!あははは!!」
熱はないことは分かっていたのだが、氷の妖精であるチルノの額は、半妖の平熱の前にはただただ熱いという感覚しか残らなかったようだ。
今はもう秋だ。そんな突っ込みをしたかったが、それよりも『君が冷たすぎるんだ』そう言い聞かせようとしたとき、周りが凍った。
「いや…君が冷たすぎる…だけ、ぐぇ!」
「うわー林之助カエルみたい!涼しい?涼しいでしょ!」
「さ…寒い…」
読んで字のごとく、霖之助の周りには太い氷柱が突き刺さり、動くことも抜くことも出来ない状態に至らしめたのだ。
氷柱は冷気を放ち、霖之助から体温を奪っていく。
その様子に「おかしいなぁ林之助苦しい?」と疑問を投げつける辺り悪意はないのだろう。
除けてくれるだろうと期待し………た霖之助が間違っていた。
ぴょこん
「あ!カエル!」
冬眠前の季節はずれ過ぎるカエルは、霖之助にとっては悪魔の使いであった。
チルノは縁側から外へと飛び出て、一目散にカエルを追いかけていく。
「こ…氷…どけて…」
周りの氷をどうにも出来ないまま、霖之助は弱弱しい声を出すしかなかった…。
***
「林之助!見て見て!カエルの氷付け!!……どうしたの?」
「さ…むい…」
カエルの氷付けを自慢げに見せ付けるチルノに、霖之助は息絶え絶えに体を震わすことしか出来ないでいた。
そして、あろうことか何を思ったのかチルノは胸を張って声高に叫んだ。
「林之助を倒した!あたいったら最強ね!」
「ち…チルノ…」
「んー?なぁに?」
ひどくご機嫌なチルノを叱ることも、言い聞かせることも今の霖之助には出来ない。
その代わり、内臓をフォークでえぐるような痛みと、全身の血が逆流する感覚が霖之助を襲った。
「洗面器取っ…うっぇ…!」
「!!」
あまりの吐き気に、我慢することも出来ずその場にモノを吐き出す。
…が、昨日からあるものを除いて食べ物を摂取していなかったので胃液しか出ない。
眩暈と頭痛がいっぺんに来てその場にへたり込む。
「う…」
宴で酒を飲みすぎた輩が嘔吐をもよおすことは珍しくない。
いつもはそんな輩はチルノにとっては冷やかしの対象になっていた。
が、氷柱の水滴が霖之助の布団をぬらし、寒さで霖之助の唇が蒼くなっている。
霖之助のこの状態は、明らかに自分が悪化させたものだと分かる。
青くなった顔、吐き出した嘔吐物、倒れこんだまま動かない霖之助。
妖精には生死の感覚がないが、妖精ではないモノに“死”というモノは訪れることはチルノでも知っていた。
「林之助…。元気に…」
恐る恐る霖之助を揺らすが、反応がない。
このまま放って置けばどうなるか、想像してみるがそのまま霖之助が動かなくなってしまう映像が思い浮ばれる。
「死…んじゃう、の…?」
死。それは、この世から居なくなること。もう遊べなくなること。もう会えないこと。
妖精ではない霖之助は、このまま居なくなってしまうのでは?
そう考えてしまうと、だんだん胸が苦しくなり、目からボロボロと涙が出てきた。
「りんの、すけ……死んじゃっう! うっあ……っうわぁぁぁあ」
自分は今泣くべきではなく助けを呼ぶべきなのだが、体が重くて動かない。
涙は流れるばかりで一向に止まる気配がなく、そんな自分が情けなく感じてさらに涙を溢れさせる。
「…タッ!イタッ」
「林之助…!」
頬から落ちる涙は地面に落ちる前にチルノの体から放たれる冷気によって霰(あられ)と化す。
その小さな氷の結晶が霖之助の顔に当たり、霖之助が目覚めたのだ。
心配そうに駆け寄るチルノに、霖之助は微笑んでチルノの涙を拭ってやる。
「君に感謝しないとな…」
「なん、でぇ…?」
自分は霖之助のことを苦しめてしまったのだ。感謝される覚えなどない。
もっと叱ってくれれば、こんなことにはならなかったんだ。
そんな後悔ばかりがチルノを襲う。
しかし、泣きじゃくるチルノに霖之助はまた笑った。
「君が来てから意識がはっきりするんだ。一人のときはなんだか…よく見えな…い…」
霖之助の目にはチルノが二重にも三重にも重なって見え、くらりと眩暈のするままに意識を手放した。
「霖之助!!」
***
「食中毒ね」
「え?」
「食あたりのことよ」
気を失った霖之助をチルノはなんとかして竹林の診療所へと運んだ。
そこでの主治医・八意永琳はカルテを見ながら、さも当然のように言い放つ。
食あたり…。一般に腹痛などを思い浮かばせるが、その症状と霖之助の症状は異なっているようにしか思えなかった。
「でもでもあんなに苦しんで…」
「吐き気、嘔吐の初期症状、次いで眩暈、頭痛。ボツリヌス中毒に特有の複視…。半妖でも食中毒にはかかるのね」
「?」
永琳は1人で頷き、結論を出したようだ。
霖之助の病状を聞こうとしていたチルノには聞き覚えのない言葉が並べられる。
「まぁそうゆう食中毒もあるのよ。2,3日すればケロリとしてるんじゃない?」
「???」
未だ理解しきれていないチルノを他所に、永琳は思い出したように言付けを頼む。
「店主に言っておいて『辛子レンコンの拾い食いはよしなさい』って」
「わかた」
***
3日後。
永琳の言葉通り、霖之助は何事もなかったように元気になった。
「まったく!霖之助はあたいがいないとダメオなんだから!」
「…そうかい?」
「そーなの!」
たしかに、あのとき香霖堂に偶然遊びにきたチルノのおかげで今を平和に過ごしているのだ。そこは感謝するべきところだろう。
ただし、途中氷柱を周りに植え付けたことを除くが…。
チルノに看病してもらうなどもうこりごりだ。そう感じずにはいえない。
そんなチルノでも役立つ時期と言うものがあったりする。
「まぁ、夏場は君がいてくれると助かるかな」
「でっしょー?!」
満面の笑みを浮かべるチルノに、来年の夏に香霖堂に遊びにくる約束をこぎつけ、次の夏は快適に過ごせそうだと思っていると、思い出したようにチルノが口を開いた。
「そうそう!あのね、えっとぉ…『彼、死ん連呼の広い苦うのは良しなさい』って」
「は?」
来年と言わず、真冬の時期にチルノが香霖堂を押しかけることになるとは、このときの霖之助は微塵も思っていなかったとか。
補足
・辛子レンコンとは…1984年に熊本で起こった食中毒事件。患者47人、死者11人をも出したボツリヌス食中毒である。
・ボツリヌス食中毒とは…ボツリヌス毒素によって起こる生体外毒素型食中毒である。発生事件数は年平均1~2件と少ないが神経障害を主症状とするもので致死率が非常に高い。
主な原因食品は家庭で調製された野菜・果実の缶詰、瓶詰、ハム・ソーセージ、真空パック食品がある。
症状として、作中永琳が言ったほかに瞼が垂れ下がる(目瞼下垂)、光に対する反応が遅れる(対光反射の遅延)、嚥下障害、発語困難などがある。