少女の紫がかった髪は、森の風を受けてふわりと揺れる。
朱色の花を手に、下ばかり向いていた背筋を伸ばして周りを見渡した。
「ふぅ…あとは白い彼岸花を摘むだけなのに…」
家に持って帰ると火事になるという迷信をもつその花は、毒こそ持つものの花言葉はロマンティックなものだったりする。
『想うはあなた一人』
『また会う日を楽しみに』
たしか『情熱』とも言われることもあったはず。と思うも、手元に書籍がなければ確認のしようがないので諦める。
そういえば花の妖怪がいたはず…そんなことも思いながら少女は手元の赤い花を見つめてみた。
この朱色の花ではない。少女の求めているのは白い彼岸花である。
同じ形で異なる色を持つその花は、どうしても自分に必要なものなのだ。
もう一度ため息を吐くと、しょうがないと独り言をこぼしながら、ある場所に足を進めることにした。
***
「ここなら白い彼岸花はあるでしょう」
彼岸花が多いと言えば幻想郷ではここが一番だと少女は知っていた。
季節もあって、そこは数え切れないほどの真っ赤な彼岸花が咲き乱れている。
しかし、どこを見ても赤い花ばかりで、白い花は見当たらない。
「赤い彼岸花しかありませんね…困りました…」
少女は眉を寄せて途方にくれた。
もう少し、もう少し奥に行けばあるかもしれない。そう自分に勇気付けながら足は前へ進む。
しかし、隙間なく咲いていた彼岸花は、そのうち絶えてきてしまい、少女は不安になった。
これ以上先に行っても、白い彼岸花は見つからないかもしれない。
もし見つからなければ…?
マイナスに考えてしまえば、気分も下がってしまう。
自分の使命さえも叶えられないでいる自分がふがいなく感じていた。
それはまるで足がすくむような、倒れるような感覚。しかし、実際は立っているだけのはずである。
この感覚は彼岸花が見せているのか。そう感じ始めてきた、そのとき。
「自殺者かい?」
若い男だろう思われるその声に、少女は目が覚めたように自分の体が軽くなっていったのが分かった。
声のするほうにゆっくりと振り向くと、そこには銀髪の青年が立っていた。
「…自殺者? 私がですか?」
自殺者。と言われても自分には全くその気はない。確かにそのように働きかけているかもしれないが、それはこれからのために動いているにすぎない。
未来への抱負と思えば、この行動は自殺ではない。
青年が何を言っているのか分からなかったが、少女は聞かれたことを素直に答えた。
「いいえ。私はこちらに用があって行くのです」
白い彼岸花を得るため。ただそれだけのために少女はここに足を踏み入れたのだ。
「このまま行くと君の命に関わる」
青年の言葉は、まるで自殺者をなだめるように物腰優しく言っている。
そこで少女は気が付いたのだ。
「まぁ!私はもう再思の道に足を踏み入れているんですか?」
再思の道。魔法の森を抜けた裏にある、無縁塚に続く道。
自らの命を絶とうとする人間が、彼岸花の毒気によって生きる気力を取り戻すことから「再思の道」と呼ばれている。
さっきの心が不安定になるような感覚は、本当に彼岸花が見せていたのだ。
たしかに、ここに入ろうとするものは自殺者か、よっぽどの奇天烈な者だけだろう。
…自分のことを奇天烈と思いたくなかった少女は、自殺者と名乗ってもいいのかもしれないと思った。
青年はやれやれと肩をすくめると、少女が自殺目的じゃないと分かったのか、少女をそこに残して自分は奥に進もうとする。
「すでに再思の道なんだが…無縁塚に行くつもりだったかい? …それとも、本当に自殺目的なら引き止めて申し訳ないね」
後ろ姿をぼうっと見ながら、少女は呟いた。
「私のやることは自殺行為かもしれませんが、まだ死ぬわけにはいきません。どうにかして白い彼岸花を手に入れねばならないのです」
背を向けて歩いていったと思えば、くるりと振り向いて、マヌケを見るような目で少女に言った。
「白い彼岸花?それなら里の田んぼのあぜ道に咲いているじゃないか」
「あら。灯台下暗しですね」
少女は里の方に視線を向けることを忘れていたのだ。
田んぼのあぜ道にも彼岸花は咲いているじゃないか。
少女のあっけらかんとした様子に、青年はため息をこぼすと来た道にきびすを返す。
「明日君が息絶えていたら夢見が悪い…里に戻るんだろう?えっと…」
「阿弥。そう呼んで下さい」
「僕は…」
阿弥はお人よしな青年ににこりと微笑みかけると、自己紹介をしようとしていた青年…霖之助の生活を言い当てる。
「知っていますよ。森近霖之助さんでしょう?大手道具屋霧雨店にて弟子入り中。読書が趣味。最近は店の手伝いあってかあまり読めていないとか」
「…なんで」
「貴方は里でも有名ですよ」
阿弥が霖之助のことを知っていたことに動揺しつつも、『里で有名』と言う言葉に前髪を指でいじりながら呟いた。
「…やっぱり何年たっても姿が変わらないことは不審に思われるかな…」
「そんなことないですよ。働き者だからです」
阿弥がにこにこしながら否定すると、霖之助まで口角を上げて「だったらいいけどね」と呟いた。
***
魔法の森を歩いていると、物陰からガサガサと草木が揺れる音がした。
そして血生臭いにおい。一瞬で死臭だとわかると、霖之助は阿弥を自分の背に隠して物陰を伺う。
「………」
「…妖怪、ですか?」
「おそらく………でも大丈夫だ。今なら行けるよ」
霖之助に見えた妖怪は、幸い背を向いているといっても、耳を済ませれば肉を割く音や、舐めるような水の音がした。
草木の間に見えたそれは…。
そのとき、興味があったのか、阿弥が身を乗り出して様子を覗こうとしていた。
霖之助はとっさに阿弥の目を両手で塞いだ。
「なぜ私の目を閉ざすのですか?」
「…妖怪が食事中だからさ」
「食べられているのですか…?」
どうやら見ていないらしい。
霖之助はほっとしつつも、阿弥をここから遠ざけようと説得する。
「早々に去ったほうがいい……見ないほうがいい」
「…私は大丈夫ですよ?」
「いいから」
あまり声を上げては妖怪に気付かれてしまう。
それを恐れていたにも関わらず、妖怪はぐるりと首を回すと、こちらに気付いてしまった。
(誰だ…)
「しまった…」
頭は牛なのに、首から下は蜘蛛のような胴体を持つ真っ黒なそれは、足を細かく動かしてこちらに向いた。
(おお…おお…人間ではないか…妖怪(同胞)の肉は硬くて物足りないが…お前らを食後の口直しにでもしてやろう)
「走って!」
恐怖を覚えた霖之助は、阿弥の手を引いて森の出口を目指して走り出した。
里まで行けば妖怪は襲ってこれなくなるはずだ。
しかし、妖怪は不思議と足音もなく、草木が揺れる音が唯一の印だ。
こちらは道なき道を少女と走っている。勝ち目はないと思われた。
「はぁ…はぁっ!森近さんっ」
阿弥は息切れをしつつ霖之助に話しかける。
「喋る暇があるなら走れ!あいつはこの辺りを牛耳っている妖怪だっ短気だし残忍で…っ!逃げないと食われてしまうっ!」
「牛鬼(ぎゅうき)ですっ。初めて見ますが…本当に獰猛な妖怪ですねっ!」
「舌を噛みたいのか君は!」
叱ったのにまるで聞いてなかったように喋る阿弥に苛立ちを感じつつ、見えない出口に絶望しかけたとき。
「石は流れる…木の葉は沈む…牛は嘶く…馬は吼える…」
「え?…何言って…」
手を繋いでいた阿弥が思い出したように呟いた。
まるで正反対の言葉に困惑した霖之助だったが、阿弥は叱咤した霖之助への仕返しのように怒鳴った。
「ご一緒に!石は流れるっ 木の葉は沈むっ 牛は嘶くっ 馬は吼えるっ!」
「えっと…い、石は流れる!木の葉は沈む!牛は嘶く!馬は吼えるっ!!」
なかば急かされながら、霖之助は息の続かないのを堪えながら、叫ぶように唱えた。
(ちっ!)
舌打ちが聞こえたと思えば、牛鬼の気配は消え、何事もなかったかのように葉が風に揺れていた。
「ど…どうなって、るんだ?」
ゼーゼーと息切れを直そうとも、何が起こったのか分からなかった霖之助は、遅れてきた恐怖と、生きていることに安心してその場にへたりこんだ。
それは阿弥にも言えたことだったらしく、阿弥はヒューヒューと呼吸を荒げながら、その場に倒れこんだ。
「阿弥!!」
***
温かなそれは、居心地が良くてずっとこの場にいたいと思った。
まるで父親の背のようで。
大きくて、温かくて…。
「ん…」
銀色の髪の毛が夕日の光で赤く見える。
光に反射してキラキラと輝くそれが、とても綺麗に映えた。
「目覚めたかい?」
「えと…私…。え?森近さん?!」
今自分が霖之助の背におぶられていると分かるには少々時間がかかった。
今日出会って間もない男性におぶられているのは、はしたなく感じつつ、阿弥の頬が温かくなったのがわかる。
「妖怪を撒いたあと倒れたんだよ。目覚めるのを持っていたんだが、日が暮れそうだからおぶって帰ってきたんだ。もう里に着いているよ」
見渡せば、もう見慣れた里の風景が目に映る。夕刻のこの時間、皆家に入って夕飯の用意をしているのだろうか。そう思いながら、人の通りがない寂しげな道が、幻想的に見えて、阿弥は目を細めた。
しかし、ふと考えてみる。自分が男性におぶられているところを誰かに見られていたらどうしようかと。
阿弥はキョロキョロと周りを見回して、誰もいないことを確認し、ホッと胸をなでおろした。
しかし、恥ずかしいことには変わりなく、急に顔に血が上ることを覚えた阿弥は、言い訳をするように霖之助に話しかける。
「えっと!あんな真逆なことを言うと牛鬼は逃げ帰るんですよ。あ、そうそう牛鬼はお酒が大好物なんです。事前に正月に酒を供えると襲われずに済みますよ」
知ってました?と笑顔で答えてみるものの、霖之助は答えずに、足が止まった。
そこは阿弥の家の前だった。
門には、達筆な字で『稗田』と書かれている。
「あの…私…」
自分は苗字を言っていないし、わざと自分の苗字を言わなかった。
阿弥を背中から下ろすと、霖之助は真っ直ぐ阿弥と対峙する。
「君、稗田阿弥さんだろう?」
「え…」
「君は里で有名だから」
里で『稗田』といえば、名望のある家柄であるがために、周りの人間は遠巻きにしがちだ。
もっとも阿弥自身、家から出ることは少なく、ずっと書に向かい合い幻想郷のことについて書き写していたために、交流は必要最低限しかなかったものの、やはり、里の目を気にしていた。
今回ばかりは『稗田阿弥』としてではなく、『ただの阿弥』として誰かと話したかったのかもしれない。
霖之助がいつ自分に気が付いたかは分からなかったが、霖之助がもう普通に接してくれないような気がして寂しかった。
「……」
自分が黙ったことで、会話が終了したように思えて、阿弥は門の扉に手をかけた。
「阿弥」
さん付けでも、苗字でもなかったそれは、たしかに自分を呼んだことには間違いなく、阿弥は内心嬉しく感じながら、ゆっくりと振り向いた。
「…?」
「これは、必要なかったかい?」
「これは…」
夕日が写って赤く見えたそれは、間違いなく白い彼岸花だった。
どうやら帰りの途中で摘み取ったのだろう。
「君、これを探していたじゃないか」
「そうでした」
半ば忘れかけていた花をキュッと握り締め、これで転生の術に前に進める…と小さく呟いた。
その言葉は霖之助に届いていなかったが、頭を掻きながら阿弥に尋ねる。
「結局…あの妖怪の口周りとか、見たんだろうね」
「え…ああ、牛鬼なんてめったに見ないものですから、記念に見ないと損じゃないですか」
話の流れについていけなかったのか、阿弥は一瞬呆けたが、それが今日の妖怪だと分かると、恐ろしい妖怪が阿弥の脳裏に浮んだ。
身悶えするほどではないにしろ、恐怖を覚えた阿弥に霖之助は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「…妖怪が妖怪を喰らう姿なんてグロテスクなだけだ。君は稗田家当主の人間。御阿礼の子は一度見た物や聴いた物を全て憶える事ができるのだろう?あんなもの見なくてもいいじゃないか?」
自分の身を案じている様子に、またも阿弥は呆けてしまった。
御阿礼の子が見て、聴いて、そして書き記すことは宿命に近いものであると、阿弥自身分かっているし、認めている。
この能力について心配されるなど記憶にあっただろうか。
阿弥は柔らかく微笑むと、力強く霖之助に言い聞かせる。
「……心配してくださってありがとうございます。でも私は平気です。それが御阿礼の子の定めなのですから」
「…つらい仕事だね」
またも心配してくれる霖之助に、阿弥はもっと早く出会っていたかった。
友達になっていたかもしれない彼が、とても愛おしく思えたのだ。
しかし、御阿礼の子には寿命がある。
妖怪より短く、人間よりも短く。そして、次の体を求めるため残りの命をささげるのだ。
半妖である霖之助への皮肉も込めて、阿弥は口を開いた。
「そうですね。貴方のようにふらふら霧雨店の手伝いをするだけの人よりはだいぶ大変です」
「僕は近々独立するつもりだよ」
阿弥の言葉にむっとした霖之助は、近い未来自分の店を持つと言った。
妖怪も人間も分け隔てなく訪れることの出来る店。
霧雨店のように大きくなくてもいいから、自分が満足できる店を持ちたいと―…。
「そうなのですか。お買い物に行きたいですね」
「来ればいい。今日のお礼にサービスするよ」
「……ええ、いつか行きます。必ず」
阿弥は力強く返事をするも、霖之助と阿弥が再び出会うことはなかった。
***
言葉通り、霖之助は霧雨店から独立し、魔法の森で店を開いた。
『香霖堂』と呼ばれたそれは、ひっそりと、でも確実に存在していた。
まるで誰かを待っているかのように…。
花束を届けてくださいな。
白い花。白い彼岸花ですよ?
まるで皮肉だって?クスクス
いいのですよ。皮肉も言ってもいいじゃないですか。
その方が友達らしいでしょう?
―カランカランッ
「来ましたよ。約束を果たしに」
「いらっしゃい」
紫がかった髪の少女は、来店早々にそう口にした。
そんな彼女を、霖之助はこころよく出迎えた。
少女―…稗田阿求は英雄の名の記した書籍と、真っ白な彼岸花の花束を手に香霖堂に訪れた。
英雄を賞するために。
先代に代わって、友人の店を見に。
花束を渡しましょう。
御阿礼の子を心配してくれた、心優しい英雄に。