春の日差しが窓から差し込む午前と午後の境界。
居間のテーブルには、ミートスパゲティが2人分並べられていた。
蓮子の向かい側には霖之助が座っている。
楽しい談笑。おいしい料理。蓮子は幸せな気持ちだった。
「蓮子、顔にミートソースが付いてるよ」
「おやや、こりゃドジだね」
蓮子はソースが付いているだろう口元を拭くと、そんな蓮子の姿を見て霖之助がクスリと笑った。
「そっちじゃないよ」
ヒョイッと蓮子の口元についたソースを取ると、霖之助は迷うことなく自分の口に運んでペロリと食べてしまった。
その行動があまりに自然すぎて、抗議することも恥ずかしがることも出来なかった蓮子は、せめてもの照れ隠しとして頭を掻きながら笑う。
「悪いね、恥ずかしいところを見せちゃった」
「いや、僕は蓮子のそういうところも好きだよ」
またも、自然な霖之助の口調に、蓮子は酔い始めた。
目の前がくらくらとゆれるような、鼓動がうるさく鳴っているような。
フワフワとした感覚がする中、蓮子の口から自然と言葉が出てくる。
「霖之助…私も霖之助のこと…好きよ?」
「蓮子…」
2人はそのまま身を近づかせて、お互いの目と目を通わせる。
「ん…」
そして瞼を閉じて顎を上げて唇が―――……。
* * *
「なんて夢見たんだよ私…」
春眠暁を覚えず。とは、このことかもしれない。
時計の針はすでに12の文字の方角を指し、窓からはやわらかな日差しが蓮子の目を眩しげに細くする。
部屋の温度はまさにポカポカとした陽気で、蓮子は『これは寝坊してもしょうがない』と無理やり自分を正当化させた。
そんなことよりも思うことは先ほどの夢である。
自分と、霖之助が。
思い出すだけで顔から火が出そうになる。
「…もしかして私ってばとってもえっちぃのかしら…?」
蓮子は布団の上で呆けていると、数ヶ月前のバレンタインに貰った花の飾りが目に入った。
メリーが嬉しそうに花を壁に飾っていたことを思い出す。
そういえば、霖之助が来てもう1年が経とうとしていた。蓮子は感慨深く腕を組み、大きく頷きながら、霖之助が来てからの一年を振り返っていた。
今時らしくない物言いや考えに年上に見えながら、その世間知らずさに大きな弟が出来たような錯覚がしてくる。
霖之助が来てからメリーも随分変わったような気がする。
照れる表情や、物言い。それはまさしく恋をしている美しい女性であった。
――あれは間違いなくホの字ってやつだろうね。
メリーがチョコレートを渡す際の顔、様子を思い出すと、自然と頬が緩む。
可愛いなぁ。と、思いと同時に喉に何かが痞えたような感覚を覚えた。
もちろん、蓮子は朝食を摂ったわけでも、咋夜の夕食のメイデッシュが魚だったわけではない。
ちなみに咋夜の夕飯は親子丼だった。
つまりは喉に骨が引っかかるわけない。
蓮子は1人首を傾げるが、その理由を追求する前にまた思い出に浸っていった。
そういえば、男の子と旅行へ行くなんて修学旅行以来だった。
酒を飲んでから記憶が曖昧なのだが、とりあえず介抱はしてもらったと思う。
自分が気分が悪いといえば、温かいお茶もくれる。
つくづく森近霖之助と言う男はいいやつだなぁと再認識する。
その上家事も出来るし、器用で世渡り上手な気がする。
ふと思い出す。そんな霖之助でもバイトはうまくいかなかった。
あのウェイター姿は似合っていたが、客への態度が口ベタ、もとい説明不足であったために女性客に言い寄られていた。
そのことを思い出すと、またも喉に何かが引っかかったと同時に、今度は胸がムカムカしてきた。
親子丼が胃を痛めることはないとは思う。
さすがに理由が知りたくなった蓮子は、今自分がしていることを思い出す。
思い出に浸ることが胸を締め付けるような理由があるとでも言うのだろうか。
そして、思い出は霖之助と出会った当初にまでさかのぼった。
チンピラに絡まれていたところを助けてくれた霖之助。
胸の痛みは増して、そして思い出す。
――なんで私霖之助の笑顔を思い出すと胸が痛むんだろう…。
くぅぅ
それは腹部からのSOS。
さすがに空腹が最高潮になったのだろう。
腹を抱えた蓮子は、情けなく顔の力を抜いて「なんだ」と、呟いた。
「お腹が減りすぎて胸も痛かったのね」
理由が分かれば蓮子はすぐに布団から飛びのいて部屋着に手をかけた。
* * *
「おはよ」
「珍しいね、蓮子が寝坊するなんて」
居間にはエプロンをかけた霖之助が立っていた。
どうやら昼食を作っている合間に居間の掃除をしていたようだ。
蓮子にとっては、先ほどの夢の中で対話していた相手であったために、意味もなく焦ってしまう。
「りっ霖之助!!」
「?」
「あっ!や!違う違うの!なんでもない!あはは………メリーは?」
霖之助と一緒に掃除をしているのかと思ったのだが、部屋にメリーの気配はなく、ただ日の光だけがその部屋を照らしている。
その眩しさに目を細める蓮子を他所に、霖之助は頭を掻きながら口を開く。
「あー…外出したよ」
「日曜の午前中から?大学なわけないし…男かな」
本当は紫として幻想郷に行ったそうな。それを知らせるわけにはいかない以上、下手なウソを霖之助はつかざるおえない。
否、ウソをつくことが苦手なら、最初からウソを追及されないようにするだけである。
「さぁ?僕は聞いてないけど、そのうち帰ってくるさ。で、蓮子。今は午前ではなくもう昼なんだが」
「日曜!日曜だからしょうがないの!私だって大いに寝たいときはあるの!」
実は遅刻魔である蓮子よりも、メリーの方が寝ぼすけな時が多い。
それはメリーと紫の二重生活のためなのだが、その真実を知るのは霖之助しかいない。
イタズラした子供のように微笑む蓮子にため息をもらし、仕方ないと呟くと蓮子の肩をぽんと叩きながら言った。
「僕はもう少ししたらバイトに出かけるんだ。留守番頼むよ」
「…ん」
その手にピクリと反応した蓮子であったが、夢のせいだと自分に納得させ霖之助の後ろの鍋に指を指した。
「…で、鍋吹いてるよ」
「おっと」
慌てた様子で鍋の火を弱めると、肩越しに蓮子が尋ねる。
「今日のお昼ご飯はなぁに?」
「ミートスパゲティだよ」
「ふーん……っ!!」
おいしそうだね。と言いたかったが、蓮子の頭にある光景がフラッシュバックした。
咽たように咳を何回もしていると、さすがに霖之助も心配そうに覗き込んできた。
「? パスタはいやだったかい?」
霖之助の心配…。それは昼食のメニューへの心配だったものの、その顔の近さにますます蓮子の焦りは高まってしまう。
「いやいやいや!!!そんなことないよ!? …ただ」
「ただ?」
さきほどの霖之助は何をした?
自分は?
見つめあい、頬を染め、顎を上げ、目をとじて…。それから?
思い出したらきりがなく、蓮子の頭の中では先ほどの夢の内容がリピートしてしょうがない。
顔に血液が上がるのが分かると、ますます霖之助の顔が見れない。
「なんでもないっ!」
「?」
ぷいっと顔を背いてその話から脱したものの、蓮子の頬から熱が引くには時間がかかった。
* * *
頬の熱も冷めてきたとき、丁度昼食であるミートスパゲティがテーブルに運ばれてきた。
未だ霖之助の顔が見えにくいものの、朝食を抜いていた腹はまず食欲を求めてくる。
一口食べれば、空腹と共に心まで落ち着いてきた。
やっと笑顔を霖之助に向けれるようになったときには、皿に盛られたスパゲティは半分も減っていた。
「おいしい」
「そりゃよかった。メリーが帰ってきたらレンジで温めて食べさせてあげてくれ」
「うん」
この料理のおいしさならきっとメリーも喜ぶだろう。
喜ぶメリーの顔を想像して、ちくりと胸が痛んだが、それを否定するようにスパゲティを勢いよく吸い上げた。
チルンッ
その様子に霖之助はクスリと笑った。
「蓮子、顔にミートソースが付いてるよ」
「おやや、こりゃドジなところを…ってうぇ?!」
「?!! なんだいきなり」
霖之助の言葉は忘れかけていた場面を彷彿させ、思わず奇声を上げる。おまけに顔も紅くなる。
蓮子は必死に顔をなでてミートソースを取ろうとした。
「なんでもない! どこ?!ミートソースッ!!どこっ?!」
「そっちじゃないよ」
唇端のミートソースを取ろうと霖之助の手が徐々に蓮子へと近づいてくる。
蓮子の瞳には霖之助の手にしか見えなくなり、ついにはその先に起こるだろう自体までも見えてきそうになる。
「にゃーー!!!!」
「?!!」
蓮子の奇声により、霖之助の伸ばされた腕が引っ込んだ。
そして激しい息切れをしながらフォローをする。
「なんでもないよっ?!」
「…? なんでもないならいいんだ」
「よしよし…! 夢の通りいってないぞ!」
「?」
ガッツポーズをしながら胸をなぜ下ろす蓮子に、霖之助は首を傾けるばかりだった。
「それよりも霖之助!パソコンは上達した?」
「あー…うん…。とりあえずパソコンとは自ら命令(プログラミング)し、さらなる強化(パワーアップ)・改造(カスタマイズ)することが可能なことが分かったよ」
「プッパッカッ!!! …あっはっはっは!何言ってんの!わらっ…あはははは!」
話を逸らそうと試みた結果、霖之助から出た言葉はどうにも世間離れしているにしか聞こえず、思わず蓮子は吹き出し笑わずにはいられなかった。
笑い続ける蓮子に霖之助はムッと頬を膨らまして自分の考えた理論を通そうとする。
「…だってそうだろう?CDROM、ネットワーク…媒体はいろいろあるにしろ、データを受信することでそのデータをパソコンが読み取ることができるじゃないか」
「ダウンロードのこと言ってる?そんな今まで知らなかったみたいに…」
つまり世間知らずすぎると蓮子は言いたいのだろうが、そういうと大概霖之助は否定するのでそこのところはあえて言わない。
しかし、この世界に来て1年。霖之助だって相応の耐性と、どう受け答えするかは学んだ。
「君に言わせてみたら僕は田舎者さ」
ここはあえて胸を張って肯定する。
肯定することで冗談とも取れる上、自分はウソをつかなくても済むのだ。
無理に否定し、怪しまれることよりは格段にいいに決まっている。
が、しかし、霖之助にとってその言葉は自分のプライドを傷つけることと同様なことであり、無意識のうちに頬を膨らませることになっているのは霖之助自身未だ気付いていない。
「やだ!霖之助たら拗ねてる?かっわいいなぁ」
頬を膨らませる霖之助はやたら可愛らしく見えてしょうがなく、蓮子は思ったことをすぐに口にしてしまった。
その言葉はさらに霖之助の頬を紅く膨らませるのだが、蓮子にとっては逆効果である。
「男に“かわいい”はあまり喜べないものだね」
頬を紅く染められることはとても可愛らしい動作なのだが、このまま行けば霖之助の機嫌は斜めに傾くばかりである。
蓮子は慌てて…至極慌ててフォローとして思いついた言葉を口に出した。
「そんなことないよ!褒めてるんだよこれでも。好きな人の行動はどんな姿でもフィルターかかって見えちゃうもんだし…!」
「………え?」
「………あっ …え?!」
霖之助が聞き返したことで自分の口にした言葉を思い出す。
今自分はなんて言った?
“好き”
それは目の前のヒトに?
フィルターのかかるヒトに?
つまりは霖之助に?
「………」
「………」
蓮子が黙ってしまったがために霖之助まで黙ってしまう。
その空気は重いわけではないが、どこか甘くむずがゆい。
「……えっと…」
沈黙に耐え切れなくなった霖之助が口を開こうとすると、蓮子の脳内でその後の言葉が思い浮かばれる。
そして紛らわすために
「うあーーーーー!!」
叫んだ。
突然の告白の答えは、『イエス』か『ノー』で、どうしても答えを聞くことを蓮子は恐れたのだ。
蓮子は霖之助を無理やり立たせるとグイグイと背中を押して玄関へと追いやった。
「霖之助ったらもうバイトの時間じゃない?!大変遅刻しちゃう!!さ!さ!家の留守は任せて!いってらっしゃーい!!」
「え、あ…ちょっ蓮」
バタンッ
霖之助の言葉を遮るように扉を閉めると、その勢いのまま鍵を閉めた。
鍵がかかったことが分かったのか、扉の向こうでうろうろしていた霖之助の足音は、トボトボとバイト先の本屋へと向かうのだった。
足音がしなくなったことが分かると、玄関に座り込んで大きくため息を吐く。
「はぁーーーー」
顔は熱く、手足がうまく動かないのだが、頭だけははっきりとしている。
手で顔を覆うと、思いのほか手のひらが冷たくて気持ちがいい。
少しだけ顔のほてりが失せてきたところで蓮子は気付いてしまった。
自分の気持ちに。
もう一度ため息を吐いて呟く。
「はぁ…好きなんだ、私…霖之助のこと」
* * *
それから一時間程後のこと、この部屋の主の一人であるメリーが帰ってきた。
鍵が閉まっているのを不審に思いながら、自分の鍵で扉を開ける。
部屋に居た蓮子を見てメリーは驚いた。
「ただいま…って蓮子どうしたの?!顔真っ赤よ?!」
「風邪ひいたの?」と気を使ってくれるのをありがたいと思いながら「んーんなんでもないよ…」と首を振ってなんでもないそぶりを見せる。
「それよりメリー……。…その、ごめん…ね?」
真剣なまなざしにメリーは戸惑ったが、肝心の何に対してなのかが分からず首を傾けることしかできない。
「え? 何が?」
「なんでも…」
蓮子はもう一度ため息を吐くと、収まらない紅い頬をなでながら春の空を眺めた。
おまけ
「森近君上着はどうしたんだい?この時期いくら昼間は暖かいからって夕方はやっぱり冷えるよ?」
「はぁ…」
なんてことがあったり。