《吸血鬼とワルツ》


《吸血鬼とワルツ》


 その日、紅魔館の主であるレミリア・スカーレットは夢を見た。
 男性が自分の前にかしずいて手を取る夢。
 まるで童話の中のプリンセスのような雰囲気にレミリアは夢の中と分かっていても悪い気分はしなかった。

 そして、男はレミリアの手の甲に口付けをする。
 その光景にレミリアはうっとりとしながら男を見つめる。
 男はその潤んだ目に答えるように言った。
   「      」

 その言葉にレミリアは頬を赤くして、笑みを零しながらゆっくりと首を縦に振るのだった。


* * *


「おはようございます。お嬢様」
「…今日は随分と早くに起こすのね」
「そうですか? むしろいつもと比べたら寝坊なくらいですが…」

 昼間は開くことのないカーテンから覗く月の位置から、確かにいつもより遅いと認識する。
 目覚めの紅茶を用意する瀟洒なメイド、十六夜咲夜を尻目にレミリアは今日見た夢について考えた。

 男性がレミリアに対し、かしずいて恋請う夢。

 そもそも寝ている時間と言うものは、生きているものにとって最も力の抜けやすい時である。
 それは吸血鬼であるレミリアにも言えることであり、誰しもそうであると信じて疑わない。
 力が抜ける――…それは緊張を忘れたときとも言える。すなわち、能力が勝手に作動するとも言えるのだ。その作動した結果と言うものが先ほどまで見ていた夢のことである。
 レミリア自身、あの夢が本物の夢だったのか、それとも自分の能力からくる運命だったのか、その違いは分からない。
 いい夢だったのであれば、そのまま運命として従うことも出来ただろう。
 しかし、素直に喜べない自分がいることも確かなのだ。

「今日の文(ふみ)ですわ」

 咲夜はまるで洗濯物を持つように、大量の手紙をテーブルの上に置いた。
 レミリアは力なく「ええ…」と答えると、テーブルいっぱいの手紙に向かい合う。
 封ろうを確認して見知った紋章にため息をついた。

「叔父貴も懲りない方ね」
「お嬢様も500歳ですもの。そういう誘いもあって当然ですわ」

 手紙の内容は分かっている。前々から決まって送られていたからだ。
 レミリアの叔父に当たる人物から『養子をとったのでぜひ婿に』と。
 同じような文面の手紙はこの山の半分を占め、すべて叔父からの手紙である。もう半分の山も違う吸血鬼家からの同じような内容の手紙なのもレミリアが頭を抱える原因の一つだ。
 叔父はスカーレット家より爵位が低い。したがって、その手紙を相手にすることはなかったが、今回ばかりは無視もできない。

 妖怪の上流階級(トップクラス)である吸血鬼ともなると、社交界などの交流があったりする。
 それは何年に一度なのか、数百年に一度なのかレミリアはよく意識をしていないが、月がひときわ輝きを増す年に、選ばれた場所で社交界をするということくらいしか認識していなかった。
 今回の社交界の舞台はここ、紅魔館に決まった。
つまり、嫌がおうにも参加し、叔父の養子はもちろん、そのほかの息子、その他もろもろに挨拶回りし、あわやその中から婿を探さねばならないことを余儀なくされるやもしれないのだ。

「……結婚はまだいいわ」

 封ろうの欠片を放り捨てながらレミリアはうなだれる。そろそろ同じような文面を見るのが億劫になってきたのだろう。
 そんなレミリアを案じながら、咲夜は一言付け加えた。

「お嬢様、結婚ではなく婚約ですよ」

 社交界での約束は所詮口約束。嫌がれば婚約解消に繋ぐこともできる。…が、プライドの高いレミリアが一度承諾するとは思えない。

「一緒よ。お見合いで結婚なんて冗談じゃないわ。そうじゃなくても私はまだ霊夢や魔理沙たちとゆるゆるお茶を飲んでいる方が楽しいのよ」

 空になっていたティーカップに瞬時に紅茶が注がれる。咲夜に礼を言いながらレミリアは考えた。
 このように毎日手紙と言う名のお見合い写真を見続けたせいであの夢を見たのなら、縦に首を振った自分が情けなくてしょうがない。かつ、あの夢が自分の能力によって見た夢ならばなおさら運命通りになってたまるかと思う。

「…なにかないかしら………」


* * *


 レミリアはある場所の前で立っていた。
 ある場所とは既に本人の目の前なのだが、レミリアは手を腰に当て、さも偉そうに口を開く。

「貴方…私の虫除けになりなさい」
「は?」

 ある場所とは、香霖堂。
 従者も付けずに来たレミリアを、霖之助は露骨に嫌な顔をする。それはレミリアの開口一番の言葉と、レミリアが客として来ていないことが分かっているためである。
 紅魔館の買い物はいつも咲夜に任されており、レミリアのみで来店と言うことは物を買っていかない。むしろ紅白巫女、黒白魔法使いと同様にろくなことをしないのだ。財布を持たない客に対する接客マニュアルを持たない霖之助は「しっしっ」と、レミリアをまるで迷い込んだ猫のように追い払おうとした。

 その態度が気に入らないのか、レミリアは苦渋の色を浮かべる。しかし、そこは紅魔館の主。わざとらしく咳払いをすると、レミリアに構うことなく本に視線を落とした霖之助に、何事もなかったように笑顔で話しかけた。

「次の満月の日に私の館を舞台に吸血鬼の社交界があるの。私ももう花も恥らう500歳。叔父貴から婿やらなにやら薦められて困るのよ」

 虫除けの意味が分かったのか、ちらりとレミリアを見た霖之助だったが、興味なさそうにまた本に視線を戻した。

「…他の男のほうがいいんじゃないか? 僕は半妖だし、れっきとした血筋でもない」
「残念ながら、私の知り合いにこのような戯れに付き合ってくれるような男は貴方の他にいないのよ。…褒めているのよ?」
「そうとは思えないけどね」
「一緒に歩くだけでいいわ。私の横に歩いて、そことなくエスコートをして、何も喋らなくても結構。こちらがうまく言いくるめる自信はあるわ」

 執拗な勧誘に、さすがの霖之助も怪しんだ。言いくるめると言っても所詮見た目が幼い少女。しかも吸血鬼の社交界ということは周りはすべて吸血鬼。腹をすかした獣の檻にか弱い小動物を放り込むようなことなのだ。仮に承諾したとして、霖之助に利得があると思えない。
 断ろうと口を開こうとする。…が、相手は紅い館に住む気高い吸血鬼。そして同時に香霖堂の常連客。不躾な態度も許されない。
 仕方無しに聞いてみる。

「…僕に利益は?」
「そうね。 なら、ここで購入を増やしましょう。以前の3倍…いえ、5倍でよろしくて? 値段も張るものをよこしても構わないわ」

 中々の好条件。常連客からある種パトロンへの移行と断言してもいい。霖之助の関心をくすぐるのに十分な待遇である。しかし、それほど危険と隣りあわせと言うことも考えられるだろう。

「…もしバレたりしたら僕の命に関わらないかい?」
「その心配はないわ。社交界では弾幕、魔法の使用を禁止し、妖気を抑えて社交界だけを好む吸血鬼が多いから」

 霖之助は感心したようにため息を吐き、きらびやかな舞踏会を思い浮かべた。
 ベルベットの絨毯に豪勢なシャンデリア。それに見合う音楽と踊る人々。それはいつか本で見た情景。

 もちろん、今回の社交界は吸血鬼が主体となっているため、予想の相違はあるだろうが、憧れが無いとは言い切れない。むしろ興味は満ち溢れている。
 憧れに満ちた思考を隠すように、投げやりに答えた。

「まるで仮面舞踏会だな」
「まるでじゃなくて仮面舞踏会よ。もっとも、仮面舞踏会と言う名の集団見合いよ」
「…仮面を被ってねぇ。所詮は顔当て遊びか」
「仮面舞踏会にしたのはこの私よ。堅苦しい雰囲気にしたくないし、何より見合いと言う難関をさけられるし一石二鳥じゃない。そうじゃなくても、中には一夜限りの遊びを目的にくる者もいるわ。そういうとき、仮面を外すのが楽しいだとか…全く理解できないわ」

 要するに、そのような軽薄な男に誘われないためも含まれているのだろう。
 仮面舞踏会と言えば、仮面をした客たちは正体が誰か分からないような服装をし、互いの正体を当てあうゲームをするのを目的とする。自分の正体が分からないからといって、中には風紀を乱す輩もいることもしばしばいることもたしかなのだ。
 しかし、結論としては決まっていた。レミリアが何を考えようと、舞踏会と霖之助は全くの無関係なことも同時に言えることである。

「君が誰と結婚しようが僕には関係がないことだ」

 またも本に視線を戻した霖之助に、レミリアの眉がピクリとつり上がった。

「……あまり使いたくなかったのだけど、私の能力によれば、近いうちにこの店は半壊、いえ…全壊かしら?」

 その言葉に霖之助の眉もつり上がる。

「…脅しかい?」
「それくらい必死だと察して欲しいわ」

 霖之助に緊張が走る。弾幕勝負をして勝てる相手ではないことは確か。
 レミリアの白い肌に浮ぶルビーの瞳は真っ直ぐに鋭く霖之助を睨みつける。威嚇にも近いその目は、たしかに『必死』、頬を伝う汗がよりそれを思わせた。
 しかし、店主としての意地もある。否、店主の前に生きとし生けるものにとっては、正当防衛近い行動とも言える。霖之助は、レミリアを精一杯睨みつけた。
 今のレミリアが蛇にならば、霖之助は蛙。長いにらみ合いの結果、白旗を揚げたのは霖之助の方だった。

「………参った」

 両手を上げ、降参のポージングを取った後、頬の汗を拭う。その様子に、レミリアは得意そうに鼻を鳴らし、手を腰にやった。

「…しかし、僕にエスコートだなんて無理なお願いだと思うけどね」
「いいのよ。ただ立ってくれるだけで大助かりよ」

 薄紅色のスカートをひるがえしながら、霖之助の腕を掴んだ。不思議そうに繋がれた手を見ていると、強い引力に引っ張られる。
 腕の痛みにまるで醜い蛙のように悲鳴を上げた霖之助を他所に、レミリアの力は緩まずそのままレミリア共々空へと飛び出した。

「私の隣に立つんだもの。それなりの教育が必要よ?」

――さっきはただ立つだけでいいって言っていたじゃないか!!

 霖之助の言葉は虚空に消えてしまい、レミリアの耳に入ることは無かったという。


* * *


「咲夜。ドレスはおかしくない?」
「ええ、お嬢様。とてもお綺麗ですわ」

 満月が血のように紅く、そして宝石のごとく輝く夜。
 紅魔館には続々と吸血鬼たちが館へと入っていく。異様なその風景は、天狗の写真に収められ明日の一面に載る事は間違いないだろう。
 紅魔館主人レミリア・スカーレットは、髪の毛を結い上げ、うなじから背中に大きく開いたワインレッドのドレスを身にまとい、従者の咲夜にリボンを後ろから結ばせていた。
 咲夜にいたっては、いつもと同じエプロンドレスを楽しそうに揺らしている。
 ドレスと同じ色の手袋を指の間までしっかりと装着しているか確認しながら、レミリアの頭には心配事で満たされていた。
 目の前の出来た従者を一緒に連れて行けばどんなに気が楽だったか。そんな後悔とともに呟く。

「咲夜も来れるならいいのに…」
「今年はこの紅魔館での舞踏会。私の他に仕切るものがおりません。それに私はメイド。お嬢様のようなドレスはとても似合いませんわ」
「そんなことないわ」

 咲夜はレミリアのスカートの裾を整えながら人事のように喋る。伏した顔には長いまつげが影を作っていた。決して容姿が悪いとは言えず、むしろ器量のいい娘。きっとレミリアと同じようにドレスを着て装えば、そこらの男など放っておくことなどしないほどの美女になるだろう。

「咲夜だってもっとお洒落をしたら…そうよ!今度私の服…は、サイズが会わないかもしれないわね…。パチュリーのよそ行きの服はどう? 今度着せ替えを…」

 従者を思っての言葉、悪く言えば暇つぶしのための着せ替え人形になるようなものだろう。咲夜からしてみたらそれはとても光栄なことだし、嬉しいものである。しかし、咲夜は分かっているのだ。この言葉は、不安を誤魔化すための言葉ということを。

「それから」
「…香霖堂店主は無能ですか?」

 図星を突かれたようにレミリアは言葉を失ってしまう。半分は本気の提案だったのに…と言おうとしたのを我慢し、今思っている不安要素を答える。

「……虫除けならば大いに役立つでしょう。でも……ああ、本当に相手を間違えたかもしれないわ。貴族の集まりに足がすくんで動けないともなれば、こちらの恥でしかないわ。それじゃあ男に対しての虫除けではなくて、ただの笑いものになりにきただけで別の意味で除けられてしまうかも…」

 それはもう、こちらが虫のごとく除けられるだろう。
 周りから白い目で見られ話しかけようともしない仲間たち。ついには遠くからクスクスと笑われてしまう最悪のパターンをレミリアは思い浮かべ頭を押さえた。

「あ゛ーー…」
「大丈夫ですよ、お嬢様。私が店主に教えたのですよ? おそらく心配は…ない、かと…?」

 霖之助は、半強制的に紅魔館へ拉致られ、その後咲夜からみっちりとパーティマナーからダンスまで教え込まれた。
 教えるといっても、相手は動かない古道具屋である森近霖之助。覚えが早いとは言い切れず、咲夜は歯切れの悪い言葉しか出ない。
 血反吐を吐くまで…とは言わないものの、時に咲夜の能力を使い、長い時間教育を行った際に「この世の地獄を見た」とのちに霖之助は語るのは別の話。

「…とても自信有り気に見えないわ」
「あはは…」

 しまいには咲夜は笑うことしかしなくなる。しかし、レミリアにとっては気をまぎれさせるのに十分なこと。咲夜が笑うと同時に、自分の頬も緩んでいることに気付いた。

「ありがとう咲夜。だいぶ気が楽になったわ。いってくるわ」
「いってらっしゃいませ。お嬢様」

 咲夜の丁寧なお辞儀を一瞥し、カツカツとヒールの音を響かせながら霖之助が待つ大広間の入り口へと向かった。


* * *


 レミリアはコウモリの翼を模ったエンジ色の仮面を被り、見知った背格好の男を捜す。
 見渡せば様々な仮面を被った吸血鬼が溢れていた。鳳凰を思わせる赤い羽根が無数に付いた仮面。七色といわず何十色のも着色した仮面。
 見慣れているはずの景色に知らぬ吸血鬼が闊歩しているのは気に入らないが、パーティ会場になってしまった以上我侭は言っていられない。
 それよりも今夜のパートナーがいなければ大広間に行くことさえままならないのに、問題のパートナーが見つからないのだ。まさか逃げたのでは?と邪推していると、後ろから聞き慣れた声をかけられた。

「遅かったね」
「レディは準備に時間がかかるものよ。…あら」
「?」
「似合うじゃない」

 痩せた体格に関わらず、背をピンと伸ばした姿はまるで労働を知らない貴族のいでたち、仮面から覗く金色の瞳が高貴な雰囲気を漂わせた。いつものぼさぼさの頭は今宵だけオールバックにし、仕立てのよい青いイブニングコートは、銀髪をよく際立て家柄の尊い人物とも思わせる。白いシンプルな仮面は簡素とは思えず、むしろ飾り気や無駄なところをなくし、高潔な雰囲気だけを残しているようにも見えた。
 褒められているのが恥ずかしいのか、霖之助はボタンホールを触りながら苦笑を浮かべる。

「着慣れないものだから違和感を感じるよ」
「もうしばらくの辛抱よ。我慢なさい」

 霖之助は小さく「そうだね」と肯定し、霖之助に構わず大広間へと進もうとしたレミリアに待ったをかけた。
 不思議そうに振り向くレミリアの前に霖之助はかしずき、そして手を前に出す。

「ではレディ。お手を」
「―――……」

 レミリアは誘われるように手をのせると、夢を見ているかのように頭がぼんやりとするのが分かった。霖之助は自然に立ち上がり、そのまま自分の腕にレミリアの指を誘う。流れるように歩き出し、妖精メイドが開閉を司る扉に向かい、光り輝く大広間へと進むのだった。


* * *


「やや!その立派な翼はスカーレット卿の令嬢ではありませんか」

 ふくよかな腹部を揺らしながら、顔全体を覆う仮面が不気味に笑う。
 所詮仮面の顔のため、本人がそのような表情をしているとは限らないが、白髪交じりの薄い髪の毛と横広な体型は仮面の笑い顔を悪い意味で引き立てていた。
 レミリアはその体型と白髪を見て一瞬悩んだものの、「ああ」と納得の声を出し会話を始める。

「その声は、スタンレー卿ね」
「覚えていらして光栄です。今日は招待頂き、まことにありがとうございます」
「貴方は父共々世話になったわ。今後とも力添え預かりたいものだわ」
「もちろんですとも! …ところで、彼は…?」

 仮面の隙間から困惑したような、睨みつけるような視線が霖之助を襲う。息を飲むのを察される前にレミリアが強引に霖之助の腕に抱きついた。

「あら? 分からない?」
「っ!」

 レミリアの口角がニヤリと上がるのを見たスタンレーは、ひどく驚いた様子を見せた。
 仮面の上からなのにハンカチで汗を拭く。その行動が、仮面の笑顔が少し引きつったように霖之助には見えてしまった。

「そ、そうですか…いえいえ、実は私の息子が来ているので挨拶をさせようかと思ったのですよ。息子のことも、何卒宜しく」
「えぇ、そうさせてもらうわ。では」

 いきましょ?と霖之助に言うと、挨拶も程ほどにスタンレーと別れた。少しして霖之助が後ろを向くと、仮面の隙間からギロリと睨みつけられた。
 仮面が笑っているためにおぞましさは増すばかりである。悪寒の走る背中を丸めることなくレミリアの横を歩くのは少々骨のいる作業としかいえない。

 かれこれスタンレーのような人物は8人目だったりする。先ほどから挨拶言う名の息子紹介には、横にいる霖之助もほとほと参っていた。
 仮面舞踏会にした理由が、お見合い相手を避けるためと豪語していたが、仮面を被ってこの状態なら、仮面を被らずにこの夜会を開いていたらと考えて身の毛がよだった。

「何が『何卒宜しく』よ。魂胆が丸見えだわ!アイツが吸血鬼じゃなければ首をはねていたのにっ!」

 レミリアは口を尖らせながら憤怒している。瀟洒なメイドなき今、なだめることが出来るのはパートナーとして任命された霖之助しかいない。
 霖之助からすれば、憤怒したいのは強制的に借り出されたこちらなのだが、仕方ないとしか言えない。レミリアにばれないように小さくため息を吐くと、本意では無しにレミリアをなだめた。

「…貴族なんて皆自分を上に見せようとする輩がほとんどだ。気にせずにのらりくらりとかわしていけばいいじゃないか」
「知ったような口ね。知り合いにでもいるの?」
「いや、本の受け売りさ。実は今自分がここにいることが不思議なんだよ」
「足がすくんで動けないとでも言うの?」
「そんなことはないが…」

 くつくつ意地の悪い笑い声が目下で囁かれ、霖之助はムッと焦燥感を感じた。その苛立ちをかき消すように霖之助は本に書いてあった壮麗な夜会を思い出す。
 自分はさながら鹿鳴館に足を踏み入れた主人公か。きらびやかな雰囲気に飲まれそうな主人公を、さらに魅了するパートナー。
 そこまで想像して霖之助は首を振った。

――何を考えているんだ僕は。

 ついに雰囲気に毒されたかとため息を吐いていると、レミリアが不審な目で霖之助を覗いていた。
 霖之助は今思っていたことを隠すように、ポツリポツリと言い訳を思い浮かべる。

「…こんな絢爛豪華な席、僕には一生無縁だと思っていたからね」
「それもそうね」

 大して深く勘ぐられることが無かったのでホッと胸を撫で下ろしていると、耳に障る喋り声がレミリアと霖之助の輪に入ってきた。

「ミス・スカーレットでございますね?」
「ええ………えっと?」

 背の低いその男は爬虫類のような大きな目の仮面を被っている。そのためどこを見ているか分からない。元々猫背気味なのか、それとも頭に被った仮面が重いのか、丸まった背中が小さな背丈を更に小さく見える。口髭についた食べカスが見苦しく、それに気付いたレミリアは思わず一歩遠退いてしまった。レミリアはこんなみすぼらしい男に見覚えは無い。

「私のことは知らなくて当然です。今宵始めての出会いですから」
「…なのに私のことが分かるの。仮面を被っているのに?」

 いくら仮面舞踏会が正体暴きを目的としていても、見ず知らずの者に名指しされる覚えは無い。
 レミリアは仮面舞踏会にしたことでお見合い相手紹介が激減すると思っていた。それはもう皆無の程に。
 しかしこれには少々間違いがあった。仮面を被ることで大分避けられてはいるのだが、生まれ持ったレミリアの雰囲気(カリスマ)は早々拭い去れるものではない。また、仲間同士のネットワークとリークが考えられる。
 薄々それに気付いていたのか、苛立ちが最高潮に達し、鋭い視線を仮面の隙間から光らせ目の前の男を威嚇した。

「おお怖い怖い。お嬢さんがそんな顔をしていてはパートナーも逃げ出してしまいますよ?」
「…何が言いたい」

 なおも威嚇し続けるレミリアに、男は慌てた様子で手を前で交差させる。どうやら自分は人畜無害だと言いたいらしい。

「私はただのしがない貴族でございます。本来はこのような場所に来ること自体が甚だしいのです。非礼な振る舞いお許しください」
「で、私になんの用?」
「そんな怖い顔はいけません。私は言わば成り上がり貴族。交易を成功させた程度の能力であります。ミス・スカーレットに良き仲買になりたく申します」
「スカーレット家と交易を交わしたいと?」

 男は「はい」と頷くと、懐に持っていた小さな箱を取り出した。箱の中身は大きな宝石の付いた指輪。それを震える手で掴むと、反対の手でレミリアの右手を素早く取った。そして指にはめようと力を込める。

「手始めにこの指輪をば。もちろんこれに御代は必要ございません。ただ、わたくしめに物を見る目があるということを分かっていただければ結構です。この指輪は今から二世紀前に人間の世界から取り寄せたものです。見事な大きさの金剛石でしょう?元の持ち主は人を惑わせ、国を翻弄し王女となった人間だそうです。このカリスマ…まるでレミリアお嬢さんのようではありませんか。今この指輪は主を探しております。きっとお嬢さんも気に入るはずです。なぜなら指輪がお嬢さんを選んだのですから」
「別に私は…」

 腕を振り払おうとするのだが、男の力は緩むことを許さない。むしろ、ツメが皮膚に食い込みレミリアの眉が苦痛に歪んだとき。ずっと黙っていたレミリアのパートナーが口を開いた。

「ふむ、そいつはウソだな」
「なっ!」

 男が持っていた指輪をパッと奪い取ると、シャンデリアの明かりを透かすように指輪を見る。どこから出したのか虫眼鏡を取り出して入念に指輪を観察する霖之助に、男とレミリアは思わず呆然とその場に立ち尽くしていた。
 そして霖之助は一通り観察した後、バカにするように「ハッ」と短く嘲笑した。

「たしかに外の世界からのものだが…金剛石(ダイヤモンド)だって? 笑わせてくれる。ただのビードロにそんな高い価値はないと思うが?」
「なな…な、なにを言っているんだ!失礼じゃないのか?! 私はレミリア嬢と話していたんだ!ただの従者に口を挟まれる筋合いは…!」

 慌てたように口走る男の言葉に、呆けていたレミリアの視線は一気に鋭くなる。

「誰が従者だと? 彼は私のフィアンセ。お前と肩を並べて歩くことさえ許されないのに…暴言を口にしていいと思っているのっ?!」

 レミリアの視線は男を貫き、殺気を感じさせる雰囲気をその場を沈黙させた。
 男の背に悪寒が走り、レミリアの紅い目だけが男の足をまるで縫ったかのように動かなくさせる。腰が抜けて動けなくなり、脂汗が仮面と皮膚の間に張り付き金魚のように口をパクパクと開閉することしか出来なくなった。
 レミリアが一歩進むと、男は「ひぃっ!」と情けない悲鳴を上げた。

「出て行きなさい。…私がお前の存在を消してしまわないうちに!」

 レミリアの言葉に、男は四つん這いになった体を引きずりながら、脱兎のごとく逃げていった。
 シンと静まりかえる広間に、男が出て行った扉が音を立てて閉まると、何事も無かったかのように会話が始まる。あまりの自然さにこのような騒ぎはありふれたことなのだと霖之助は自分を納得させた。

「ふん! ここでは弾幕は禁止のこと知らないのかしら!」
「…悪かったね。口を出して」
「いいえ、むしろ助かったのよ? 付き合いとはいえガラクタを付けさせられるところだったわ」

 その言葉に霖之助は少々口ごもり、男が残していった指輪を光にかざした。

「…あー…。…確かにガラクタかもしれないが…このビードロ、いや玻璃(はり)は金剛石(ダイヤモンド)よりは価値が下がるが珍重される鉱石だよ」
「ガラスじゃなかったの?」
「玻璃はガラスの異称だよ。君にはそうだな…クリスタルといえば分かるかな」
「まぁ!じゃあ、あの貴族もどきは正しかったの?」
「まさか、これが二世紀も前の物とは言えないよ。まぁ僕は指輪には興味ないがこの鉱石は興味ある」
「あきれた…嘘吐きは貴方じゃない」

 ビードロはただのガラスだと分かっているが、クリスタルは宝石に分類される鉱石。つまり、霖之助はあの男から指輪をくすねたと同様のことをしたのだ。
 さすがあの白黒ネズミの知り合いだけある。そう呆れていたとき。レミリアの視界は霖之助でいっぱいになった。

「な…っ?」

 体を曲げてレミリアと同じ視線で見つめる。眼鏡をしていないせいか、その距離がやけに近い。そのことに戸惑っていると、霖之助の唇が両端に上がった。

「君もウソをついただろう」
「なにかあったかしら…」
「僕のことをフィアンセ(恋人)と言った」

 思い出してカッと紅潮するのが分かる。相手の言葉がなぜか苛立ち、買い言葉のごとく発した言葉とはいえもっと他に言い方があっただろうと心の底で反省した。
 しかし、それが恥ずかしく思えてレミリアは適当に言い訳をする。

「…っあ、あれはしょうがないことよっ」
「カリスマ溢れるレミリアお嬢様はウソをつくのに長けているということだね」
「…何? 貴方何か企んでいるの?」
「まぁね」

 からかうような軽い言葉は、プライドの高いレミリアに苛立ちさえも感じさせる。
 しかし、そんなレミリアを知ってか知らずか霖之助はキョロキョロと周りを見渡すと、レミリアの手を取って歩き出した。

「…ちょっと向こうに行こうか」
「え」

 ヒトの視線を避けるようにゆっくりと歩くのだが、レミリアは霖之助に引きずられるように歩く。淑女を連れて歩く紳士の歩き方ではないこと確かだが、早く歩けない理由はレミリア自身にもあるために何もいえない。
 むしろこのまま逃避行する男女のようで、またもレミリアは夢の中にいるような、頭がぼぅっとする感覚が襲う。
 バルコニーに続く入り口の横。だれもが広間の中央へ集まりダンスをする中、レミリアは壁に背をもたれさせていた。

「足…大丈夫かい?」

 小さく「ぇ…?」と答えるレミリアの前に霖之助はかしずいて足を出すように催促をする。
 いつもストラップシューズばかり履いていたせいか、慣れないヒールはかかとに靴擦れを起こしていた。
 痛くてしょうがなかったはずの足は、今はまるで何も無かったように痛みがひいている。
 それよりもレミリアには今のこの現状に見覚えがあってしょうがなかった。
 いつだったか思い出そうとするのだが、ぼぅっとする頭は何も考えようとしない。

「……」

 考えるのに夢中になってしまって黙っていると、何を勘違いしたのか霖之助はレミリアの問いを答えるために口を開いた。

「企み…と言うと聞こえは悪いな。でも、下心と言っても聞こえは悪い」

 問い:何を企んでいるのか。
 しかし、今の呆ける頭では、霖之助の言葉はまるで水の中のように聞こえづらい。

「……どういう、こと?」

 霖之助は胸元にあった白いハンカチをビリリと破いて簡易的な包帯を作る。そして慣れた手つきで靴擦れで赤く腫れたかかとに巻きつけた。

「もし、良かったらなんだが……」
「…えっ」

 霖之助が顔を上げた途端、レミリアの脳裏に同じような光景が鮮明に映った。
 夢の中。自分が見た夢にとても忠実な情景。レミリアは確信した。
 霖之助はそのまま手を取って上目使いでレミリアを見つめる。

――振り払え。振り払って早く離れなくては…! で、でも…!

 心の中で警鐘はうるさいほど鳴っている。早く振り払わなければ夢と同じようになってしまう。
 しかし、レミリア自身それが嫌ではないことに気付いてしまった。このまま何を言われても首を縦に振る自信さえある。情けないにも程があるが、たとえ逃避行に誘われようがレミリアは肯くだろう。
 周りの音楽よりも自分の心臓の方がうるさく感じる。何を言われるかも分からない不安の中、それよりもどこか期待をしているレミリアが居たのだ。
 そして霖之助の口が開く。

「5倍の利益もいいが、金が有り余っても僕には必要ないんでね。どうだろう、3倍の利益に図書館の利用を許可してくれないかい?」


 *間*(約3秒)


「~~~~~っ!!」
「? なんだいそんなにうなだれて」

 顔から火が出そうになるのを必死に耐える。何かを期待した自分が恥ずかしくて地団太を踏んだ。
 仮面が紅い色でよかったとホッとするが、目の前の朴念仁が気付くはずもなく、不思議そうに首をかしげている。

「なんでもないわ!!喉が渇いたから飲み物を持ってきて頂戴!O型の血液よ!早く!」
「?? はいはい」

 怒鳴るように言い放ち、半ば強引にレミリアの傍から追い出した。

 霖之助は妖精メイドが持つワイングラスを取ろうとするが、何せ役立たずに近い妖精メイド。霖之助の存在に気付いていないかのように素通りしていく。空回るその姿がおかしくて熱を持っていた表情に笑みがこぼれた。
 幸いバルコニーに近い場所。夜風が流れ込み、未だ熱を感じる頬を優しく冷ましていく。が、ふとしたことで思い出し頬に血が集まる。
 先ほどの記憶を隠蔽したいほどのもどかしさに苛立ちも最高潮に達していたときだった。

「レミリア嬢…ですね?」
「……どなた?」

 記憶に無い男の声。背丈は霖之助よりも低く、そしてレミリアよりも高い。霖之助が青年とするのなら、目の前の男は少年だった。
 目だけを隠すような仮面は右耳元に赤い羽が申し訳程度散らされている。
 レミリアが返事すると少年の口角が上がった。

「貴方の叔父の養子。とでも言えば分かりますか?」

 何十通もの手紙がレミリアの脳裏に過ぎる。

「ああ、叔父貴の……悪いけれど後にしてくださる? 今気分が悪いの」
「それは大変ですね。さ、外の空気を吸いに行きましょう」
「はぁ?! …え、ええ…」

 手を掴まれて強引にバルコニーに連れて行かれる。
 バルコニーからの月はまるで作り物のように輝いており、この時ばかりは月の住人なんてもの存在を否定した。
 頬に触れる風は優しく、やっと熱も引いてきたと思われたときだった。

「気分はいかがですか?」
「まぁまぁ…」
「それは良かった」

 少年は口角を上げたままレミリアの横に立つと、そっとレミリアの仮面を触れた。
 少年の仮面から目の光は見えない。頬に少年の指が触れると先ほどまで熱を持っていたためか、指は驚くくらい冷たく感じられ、同時に見透かされるような感覚がレミリアを襲った。
 目の前の少年はどこか危険だ。そう感知するのだが、足が動かない。

「…レミリア嬢、仮面舞踏会の意味を知っていますか?」
「……意味…私は仮面を被ることで相手に悟られずに近づき、一線を保ちながら踊り明かすと思っていますわ」

 平然を装いながら、頬に触れる指を払い落とす。
 そして睨みつけるのだが、少年はまるで面白がっているようにクスクスと笑うばかり。ますます眉間に皺を寄せ、今度は完璧な敵意と殺意を込めて睨みつける。

「…何が目的?」
「いえ、貴方の叔父貴は僕に貴方を下さると言われたので…貴方を頂きに参ったのですよ」
「申し訳ないけれど、私にはもう心に決めたフィアンセが…」
「あの半妖ですか? ああ、調べさせてもらったんですよ。まぁ調べれたことは大したことではありませんが」
「…気に入らないわね。勝手に覗くなんて趣味が悪いわ」
「僕は貴方しか見ていない。盲目的な行動とすれば美しいものではありませんか」
「スカーレット家を甘く…えっ?!」

 替え玉作戦が知られて、更にレミリアの体をも狙っている輩に好き勝手言われる筋合いはない。こちらとて本気でつぶす覚悟を決めたとき。やはり足に根が生えたように動かなくなってしまった。
 おそらくは目の前の少年の能力。鋭い目付きで睨みつけるが、少年は笑うばかりでレミリアの頬を撫でた。

「貴方の力はとても強力だ。…きっと貴方の血は至高の味がするに違いないでしょう」
「私を殺すと言うの…?」
「殺す? ははっ!まさか。貴方は僕の中で生き続けます。美味なる貴方の血は僕の血となり、可愛らしい貴方の顔は僕の目に焼き映されます。さ…貴方の顔を見せてください」
「やっやめ!!!」

 少年はレミリアの仮面を剥がしながら自分の牙をレミリアの首元にあてがう。動かない足を悔やみながら心の中で今宵のパートナーの名を叫んだ。

ゴッ

 鈍い音が聞こえたと思えば、ずれた仮面の隙間から頭を押さえた少年と、そして自分の目の前に男が見えた。

「っ……おや…誰かと思えば偽者のフィアンセじゃないですか。それともこの舞踏会に足など踏み入れてはいけない半妖と言うべきですか?」

 床には霖之助が持ってきただろう血液の入ったワイングラスが割れている。レミリアのご機嫌取りのための菓子であるショコキュッセとマカロンも転がっていた。
 今霖之助が持っているのは広間に置かれた一人掛けのイス。どうやらそのイスで少年の頭を殴ったらしい。

「…ここは仮面を被る舞踏会。仮面の下なんて誰も興味を示さないよ」
「僕はレミリア嬢に用事があるんだ。下がっていてくれないか?」
「君がどう思っていても僕は彼女の婚約者(フィアンセ)だ。君に彼女を渡す気はないよ」

 少年は狂ったように笑い出し、そして霖之助を狙うように攻撃を仕掛けてきた。

「……はハハはハっ!何を言うかと思えば!いいだろう…ボくは彼女の血が目的ダ。少々鮮度に欠ケるが、お前もろトも消してやル!!」

 そのとき。

「お姉様!私も踊りに来たわ!」
「フラン!?」
「わぁ!こんなにもたくさんの吸血鬼(仲間たち)!」

 バルコニーの手すりの外から現れた少女は、緑色の帽子に3つの穴を開け、それを顔に被せ仮面と称しているのだろう。その少女は、見紛おうなきレミリアの妹、フランドール・スカーレット。
 フランは広間に集まった吸血鬼を目を輝かせながら見つめている。

――騒がれるといけないから美鈴に子守を頼んだはず。脱走か、それとも懇願でもされたか。

 様々な疑問が頭に浮びながら、ベビーシッターとなった張本人の声がそこに木霊した。

「妹様!」
「美鈴!」

 ボロボロになった服を身にまとう中華少女は紅美鈴。レミリアに引き止められやいなや深々と頭を下げて謝る。

「お嬢様すみませんっ! どうしても行きたいと…」
「ねぇお姉様! こんなにもお仲間がいるのよ? どうして遊ばないの?」

 いつものスカートを翻しながら、フランの周囲に弾幕が現れる。

「フラン、ここは弾幕ごっこをするところじゃ…」
「だってコイツは遊ぼうとしてるのよ? フフッ! 負けないわよ!」

 フランの指した先にはレミリアの命を狙った少年。フランはその少年に向かって弾幕を撃ち放った。

「フランッ!!」
「っ?! う…うっうわぁあああ!!」

 レミリアの止める声が空しくも庭に響く。そして、バルコニーが半壊した。


* * *


「酷い目にあった…」

 ささくれの立つ勘定台に突っ伏しながら、霖之助は吐くように呟いた。顔をあげ隙間風を大いに受け止めながら、穴あきだらけの天井を見上げる。

~~~

 数日前。霖之助はレミリアのパートナーとして舞踏会へ赴いた。しかし、お見合いは避けられたものの結果的に紅魔館の壁に穴を作った。
 そしてその次の日。香霖堂に客人がやってきた。
 今にも泣きそうな魔法使いと、どこか憤怒の形相を表す巫女が。

「香霖…レミリアと婚約したって本当かっ?!」
「エンゲージリングはダイヤモンドと聞いたけど…ダイヤモンドを買うお金がどこにあったのかしらね。探してみていいかしら?」
「ああっなんでスペルカードを出すんだ…うっうわぁぁぁあああ!!!!」

 紅魔館の壁の穴と同様に香霖堂に大きな壁が開いた。

~~~

 ここ数日のことを思い出してさらに霖之助はため息を吐き出した。
 過剰な訓練。危険と隣り合わせの舞踏会。壊された香霖堂…。
 商品も自分も店までも見るも無残な姿となってしまっては悪態もつきたくなる。
 問題の張本人を前に心の中で毒を吐いた。

「だから謝っているじゃない」

 見透かされたように言われた言葉は、勘定台に頬杖をつきながら言った言葉だった。

「…それが謝っている態度かい?」
「この私にここまでさせるんだからむしろ感謝してほしいわ。大体、こちらも大変だったのよ?館の修復だってあるし、ここの代金だって払ってるし。叔父貴の養子が私の命を目的としてたなんてことになったものだから、あれから叔父貴から謝罪の手紙で私の机がいっぱいよ」

 張本人、レミリア・スカーレットは謝りかたこそなってはいないが、あの夜に行われた舞踏会や、妹の戯れはレミリアの手によって収められた。
 破壊された建物の再建、および壊れた香霖堂商品はすべてスカーレット家が請け負うことになり、今は不恰好な香霖堂も数日後には何事も無かったように店を開けることが出来るだろう。
 紅魔館の一部が破壊されたのは予想外だったらしいが、香霖堂は全壊に近いほどの被害を被った。これではレミリアの言っていた運命と同じである。

「店の再建までしてくれたのはとても感謝しているよ。ただ、それが未然に防げたかもしれないのに…」
「あら、私にかかれば防ぐも何も発生させないわ」
「…それを防ぐというんじゃないか」
「店の再建もした。商品(なくなった分)も買い取った。図書の利用も許可した。これで何が不満なのよ」
「………」

 確かにレミリアは霖之助の望み通りの要望に答えている。が、レミリアの態度からか、どこか納得のいかない霖之助がそこにいつことも確か。霖之助の苦々しい顔つきに、言いたいことが伝わったのか、レミリアはプイッとそっぽを向いた。

 舞踏会の霖之助は咲夜の教育の結果、貴族の紳士に近い態度を取った。それは本来の目的であるお見合いを避けるという意味では及第点をはるかに越えるだろう。
 レディファーストを心がけ、そして危局が訪れればまるで物語の王子のように助けてくれる。
 そこまで考えて、レミリアは首を大きく横に振った。

――一体なにを考えているの私ったら。

 パートナーのことをよく見ていたところは咲夜までも霖之助を褒めちぎっていた。苦痛を平然に装っていたあの靴擦れ。応急処置のハンカチは血が滲んでいたものの、もし何もしない状態で放っておけば、カサブタは広がっていただろうと咲夜は言った。
 靴擦れを手当てする男を思い出し、頬に熱を感じるのを気のせいだと言い聞かせながら、反対に今度は苛立ちを感じ始めた。誰のせいで靴擦れになったかを思えば、ダンスをする際に霖之助が長身すぎるがためであるとレミリアは結論付ける(自分の身長が低いことは考慮にいれない)。

「…あなたのためにヒールを履いたのよ? 靴擦れを私にさせたなんてそれだけで栄誉あることと思いなさいよ」
「ああ、そういえば靴擦れは治ったかい?」
「おかげさまで」

 ふんっと鼻を鳴らしながら、そっぽを向く。そして気が付いた。

「…そういえば私たち舞踏会なのに踊っていないわ」
「まぁ君は挨拶につきっきりだったしね」

 仮面“舞踏会”と言いながらレミリアと霖之助は一度も踊らなかった。
 咲夜いわく「今の店主さんならワルツからルンバまで踊ることが出来ますわ!」と太鼓判を押していた。どこまで教育していたのかは謎であり、そこまで学習した霖之助に憐れみまでも覚えたことを思い出す。
 折角踊れるなら、一度くらい踊らなければ損と思うのは雇用側としての憐れみか、それとも別の感情があったのかはレミリアしか知らない。
 レミリアは手を前に出して口を開いた。

「私踊りたかったのよ。さ、手をとってくださる?」
「今ここで?」
「これは私からの最後のお願いよ。ねぇ私のフィアンセさん?」

 やれやれと呟きながら、レミリアの手を取ると腰から曲げ頭を軽く下げて挨拶をする。そのままワルツをするために腰に手を回してぐっと引き寄せた。

「あ…」
「?」
「なんでもないわ」

 高鳴る心臓を押さえるようにそっぽを向く。しかし、それではダンスも出来ない。レミリアはごまかすように言い放った。

「分かってる? せーの、よ? リズムは…」
「はいはい。分かっているよ。いちにっさん、いちにっさんだろう? せーの…」

 音楽のないワルツは、長身の男と幼い少女の決して優雅とは言えないダンスだったが、不思議と2人は頬を緩め笑っていた。