《猫又の判別方法》


《猫又の判別方法》


 いつの間にか香霖堂に猫がすみついた。
 全身真っ黒な毛で覆われ、目の色は月の色のような金色だった。
 その姿は夜を思わせ、漆黒の闇と見まがうその毛並みはしなやかで、どこかのいい屋敷で飼われていた猫が迷い込んできたのかと思っていた。
 しかし、里での屋敷はもちろん、妖怪の間でも飼い主は探すことは出来なかった。
 黒猫はただいつも同じ時間にやって来て、香霖堂で暖をとり、いつの間にかいなくなっていて、大人しく毎日が過ぎるのを待っているようだった。

 朝食の魚を盗むわけでもなく、商品を誤って壊すこともなかったので霖之助は特に追い出そうともせずに放置していた。
 しかしいつの間にか情がうつってしまい、今では霖之助の膝の上によく丸くなって寝ているのを、魔女や巫女が確認している。

 ただ不思議なのは、その黒猫は魔女にも巫女にも懐かなかった。
 魔理沙は魔女の従者といえば黒猫だと言って何度も手なずけようとしたが、黒猫は全く懐かなかった。
 霊夢はもともと興味を示さなかったが、博麗神社の巫女に懐かれないものなど珍しいとしか言えなかった。

 黒猫は特に悪いことをするのでも、招き猫のように福を運んでくることもこなかった。
 しかし、膝の上にあるぬくもりは、木枯らしの吹く今の季節に丁度よかったので、彼はそのまま猫が居座ることを許可していた。

 そんなある日のこと、八雲の使いが香霖堂にやってきた。

「こんにちわ」
「おや、いらっしゃい。今日は友達と一緒じゃないのかい?」
「今日は特に何にもなかったからきたの」

 八雲の使いの名は橙。氷の妖精や夜雀と遊んでいるところ見たことがあったが、今日は暇をつぶしに店にやったらしい。
 物を買ってくるように命令されてなれば買わない客と考えていいので、霖之助はそっけなく「そうか」と答えると読んでいる最中の本に視線を落とした。

 “吾輩”という猫の視点から繰り出される物語はよく人間を捉えそしてよくけなす。猫の思考など考えたことの無い霖之助にとっては、それは物語の話であり現実は異なっていると分かっていた。
 しかし、ふと居座るようになった黒猫を思い出した。巫女にも魔法使いにも懐かない黒猫が何を思ってここにいるのか。そう考えたとき、店内を適当に見上げる猫又の存在に気が付いた。

「…君は猫又だったね。今ここに猫が住み着いているんだが、その猫の話を聞いてくれないか?」
「何か悪さするの?」
「いいや、悪さも何もしない。ただ、君は猫又だから猫とは仲良く出来るんじゃないかって思ってね」
「? どうゆうこと?」

 霖之助は橙に香霖堂に現れた黒猫について話した。





「ふーん。そんなに好き嫌いの激しい猫さんなんだ」
「好き嫌いなのかはわからないが、君にはどうなんだろうと思ってね」

 懐く懐かないの真相は正直二の次である。ただ、黒猫が何を思って香霖堂に来るのかが少し気になるだけである。ある種の興味本位は目の前の少女によって好奇心に変わっただけ。
 橙はとくに考えることなく「ふーん」と答えると店を見渡して黒猫を探す。

「で、その子は…?」
「もうそろそろ来ると思うんだが…あ、来た」

 ほぼ同じ時刻、同じ場所で、まるで誘われたように香霖堂の店内へ入っていく。
 迷うことなく霖之助の前に立つと、霖之助は膝を整えて「おいで」と言うと音もなくジャンプをし、霖之助の膝に座った。そして喉を鳴らしながら自分の額を霖之助の顎に擦り付ける。
 よしよしと優しく撫でてやるのだが、橙が触ろうとするとひらりと避けて霖之助の膝から降りた。
 橙は自分を猫が避けたことに戸惑いながら、橙に興味なさそうに顔を洗う猫を見つめていた。

「…この子…」
「どうかしたかい?」
「ちょっと奥へ」
「ちょ…っ?!」

 強引に店の奥へと連れ出す橙を霖之助は不思議そうに見ていたが、橙は閉めた扉ばかり気にしている。

「あの子来てない?」
「来てないみたいだけど」

 店と奥を繋ぐ扉はしっかりと閉められている。黒猫からしてみれば、橙がいる時点で入ってこないだろうと霖之助は推測していた。
 そんな霖之助の考えなんて知らない橙は、やはり扉の向こうを気にしながら小声で話しかけた。

「この子いつからここに住み着いてるの?」
「住み着いてはないよ。毎日決まった時間にやって来てただ店にいるだけなんだ」

 いつの頃かは霖之助も詳しく覚えていない。ここ最近のような気がするが、もっと昔からいるような気もする。
 思い出すことの出来ない理由に首を傾げていると、橙は不安げな面持ちで呟いた。

「…あの子…猫又予備軍かもしれない…」
「猫又…君と同じように?」
「本来猫又は凶暴な妖怪なの!」
「…まぁ確かに文献では猫にまつわる話の大半は飼い主が殺される結末が多いね」

 南総里見八犬伝、明月記、徒然草など、数々の文献中の猫又という妖怪は人間を食い殺したという伝承が残っている。
 しかし、香霖堂は妖怪に襲われないという自信と、目の前の猫又・橙の性格。そして所詮文献は文献と割り切っているせいか、妙に霖之助は落ち着いていた。
 のんびりと答える霖之助に苛立ち、地団太を踏みながら橙は説得を試みる。

「貴方は狙われているかもしれないんだよ?!」
「だからといってあの猫に妖力は感じられないし…」

 霖之助とて妖怪の血を半分は引く存在。妖怪か、そうじゃないものかの分別くらいできる。
 黒猫からは橙のように妖怪臭さはなく、普通の猫としか思えない。
 まるで危機感のない霖之助に橙は鼻息を荒くしながら声を上げた。

「だから予備軍なの!! いーい? 今から私が猫又の判別方法を教えるから!」
「あーはいはい」

 おそらくは橙の暇つぶし。遊び。戯れ。そのための判別方法ならば付き合うだけならできるだろう。そう思いながら霖之助はゆるゆると返事をした。





「まずはぁ」

<その1 年齢を知る>

 橙が指を一本突き上げながらいった判別方法は至極簡単なものだった。

「それは君の仕事だね」
「うん!」

 猫の言葉を聞く。それは猫の言葉が分からない霖之助には出来ないことであり、第一関門は橙に任せられた。
 橙は黒猫を前に正座をして、緊張した面持ちで尋ねる。

「えっと…あなたは何歳なの?」

 しかし、黒猫は橙の問いなど聞いていないかのようにぷいっとそっぽを向いた。
 その様子に橙はショックを受け、そして霖之助はのん気に「やっぱり君にも懐かないか」と呟いた。
 さすが巫女にも魔法使いにも懐かなかった黒猫。同じ猫である橙でも一筋縄ではいかないようだ。
 もう一度尋ねてみるも、黒猫は顔を洗うだけでウンともスンとも鳴かない。

「むむむむむぅ! 店主さん! ちょっと尋ねてみて!!」
「僕は猫の言葉は分からないよ?」
「いいから!」

 橙は激怒したいのを堪えながら霖之助に要求する。半ばムキになっている橙に呆れながら、適当に聞いてみた。

「あー…何歳か教えてくれないか…?」
「……んなぁ」

 少々間があったものの、黒猫は一言だけ鳴いた。いくつだろうと首をかしげていると、顔を赤くしながら橙は叫んだ。

「んまー!おませさん!」
「なんて言ったんだい?」
「『女性に年齢を聞くなんてちょっと失礼じゃない?』って!!」
「い、今の『んなぁ』にそんな言葉が?!」

 信じられないのを耐えていると、どこからか出した紙に橙はサラサラとメモを取る。

「つまりこの猫さんは10歳以上…ってことね」
「や、今の答えでそれになるなんて…」

 10歳以上とは限らないだろう? そう付け加えると、橙は鼻を鳴らして言った。

「いい? 店主さん。女性なら年齢は隠すのもの! そうゆうものって紫様言ってたもん!」

 そうゆうものなのか…。八雲の教育に疑問を持ち始めると、耳を下げながら不安げに嘆いた。

「でも5つある判別法のうち1つをクリアしてしちゃった…」
「判別法その1って」
「猫又は10年以上生きた猫がなりやすいの」
「そ、そーなのかー…」
「それじゃ次いってみよー!」

 橙は「ちょっと待ってて!」というと一度マヨヒガに帰っていった。





「おまた…せ、あぁん!」
「なんだいその狐」
「藍様に言って貸してもらったの」

 自分の背の半分程ある大きな狐は、橙に不恰好に抱かれている。それが苦しいのか、はたまた橙が嫌なのか前足をバタつかせてその場から逃れようとし、橙の顔に引っ掻き傷を作っていた。
 橙の顔には無数の引っ掻き傷に加え、足跡らしき土汚れも見受けられ、かなり苦戦を要したようだ。

「狐が必要なのかい?」
「んーん! ホントは犬さんがいいの。だけど犬さんに逃げられちゃって…」
「逃げられたというより攻撃されたんじゃないのかい?」
「そんなことないもん!」

 霖之助の言葉に顔を赤くした様子から図星のようだ。霖之助の哀れんだ視線が橙の顔を更に赤くさせる。

「~~~~っ とにかく!この狐さんで猫又判別しなくっちゃ!」
「はぁ」

<その2 犬をけしかけてみる>

 場所は香霖堂奥の間。扉一枚を挟んだ向こうには黒猫が霖之助が座る座布団の上で寝ていることが確認済みだ。
 橙、霖之助、そして狐一匹が向かい合い話す。

「いーい?あなたはあの猫さんを驚かしてほしいの」
「狐は君の話を全然聞いてないみたいだが…」

 正座で人差し指を上に指しながら言う橙に対し、狐は首を後ろ足で掻きながら興味なさそうに欠伸をした。
 決して言うことを聞く態度ではない。

「もぅ!私の命令は藍様の命令って言われたでしょ!ほらぁ!」

 半ば強引に黒猫がいる店内に狐の尻を叩いて追いやる。
 橙と霖之助はというと、覗きができる程度の隙間を扉に作り、狐と黒猫の掛け合いを覗く。…が、どうもこの方法に納得のいかない霖之助は、扉の隙間を覗くのをやめ、橙に問いかけた。

「これは…どんな判別方法はなんなんだい?」

 橙は「だーかーらー」と頬を膨らませながら霖之助に向かい合い、今回の判別方法を説明し始める。

「猫さんが1匹のときを狙って犬さんにけしかけるの。寝ているときを狙うのがベストなの」
「で」
「猫さんが『うわぁ!びっくりしたなぁ!』って言ったらアウト!」

 得意げに言う言葉は『アウト』。判別方法の黒。つまり…。

「予備軍じゃなくて?」
「猫又決定なの」
「…そんなバカな…」

 脱力を感じさせるゆえに霖之助の肩は下がり、そして橙はその様子に憤怒する。

「バカじゃなくて本当に…!」
「きゅ~~~ん!!」
「きゃぁ!…狐さん…?」

 香霖堂店内から走って戻ってきたのは、鼻の先を爪で引っ掻かれたような傷を作った狐だった。
 ひどく脅えているようで、黒猫のいる香霖堂の方へは豊かなコムギ色の尻尾を丸め、背を向けている。
 狐と黒猫との間にどのようなことが起こったか見たものはいない。
 狙ったかのような出来事に橙は顎に手を当てて悩んでいると、獣の唸り声で我に返った。

「え?」
「う~~~!!」
「かなり怒ってるみたいだね…」

 唸り声の主は、鼻先を血で染めた狐。橙を睨みつけ今にも襲い掛かりそうな勢いである。
 サッと血の気が引くのを感じながら、橙が一歩二歩と後退りすると逃がさまいと言うかごとく襲い掛かった。

「きゃぁぁぁああ!」

 橙の主である藍の使いということもあり、ぞんざいに扱えないのか攻撃することもできず橙は逃げ回る。
 その光景は少女と狐がじゃれているようにも見え、霖之助は止めようとも思わなかった。
 …橙本人にとっては大変だったようだが…。
 霖之助がのんびりとしていると、いつの間にか移動してきた黒猫が膝に乗ってゴロゴロと喉を鳴らす。
 思いついたように、そういえば狐もイヌ科だったことを思い出す霖之助であった。





 狐の歯型がキレイについた腕に手当てしながら、橙と霖之助は香霖堂奥の間で話し合っていた。

「まだあるのかい?」
「まだあと3つ残ってるもん! その3は猫さんが自分で障子を開けて、自分で閉めたら猫又!」

 またも猫又決定なのか…。そう呆れると同時に、扉が申し訳程度開いた。

「……しかし、そんなこと物覚えのいい猫だったらどの猫でもやれることだと思うけどね」
「え?どうゆう…あ」
「この猫はかなり賢い猫なんだよ」

 黒猫は鼻先で扉を開け、霖之助がいる奥の間に入ってきた。そしてカリカリと爪を立てて器用に扉を閉める。
 それは霖之助が過去何回も見た光景だった。はじめこそ驚いたもの、賢い猫なのだと結論付けてしまえばかわいいもの。
 黒猫は橙に慣れたのか、はたまた橙の存在を空気だと感じているのか、橙を素通りしそのまま霖之助に甘える。

「ねねっねねね猫まま、たたった!!」
「障子を開けたままにしておけば部屋の空気が冷えてしまう。そういうのを分かっているだけだよ」
「でっでも…!」

 木枯らし吹く今の季節は、わずかな隙間でも冷気が室温を下げる。それはストーブを使っている香霖堂にとってとても敏感なことである。
 驚いている橙を他所に、霖之助は黒猫の頭を撫でながら「本当に賢い猫だ」と呟いた。

 外のカラスの鳴き声に気付いた霖之助は、未だうーうーと唸り続ける橙に帰り支度をするように催促する。

「とりあえず今日はもう帰りなさい。もう日が暮れている。君の主が心配するよ」
「でも……。うー…。 …うん。じゃあ…残りは口頭で言っておくね。」





 橙は実施していない判別方法その4をいとも簡単に言い放った。

「その4はこう猫さんの尻尾を解いていって二つに分かれたらアウト!」
「はぁ?ほどくって…」
「こう根元から…」

 橙は嫌がる黒猫の腰を掴むと、尻尾の根元とくりくりといじり始めた。
 はじめこそふざけている様な仕草だったが、一本だった尻尾は黒猫の体液とともに二つにするすると分かれていく。
 その光景は血みどろ。スプラッタ。グロテスク。

「ほら…」

 そう言った橙の手は血だらけであり、いつの間にか黒猫は二本の尻尾のみという哀れな姿となってしまったのだった…。





「うあぁ!!」

 ガバリと起き上がるとそこは自分の布団の上であり、キョロキョロと見渡して血だらけの橙と無残にも二本の尻尾とってしまった黒猫を探した。黒猫を溶かしたような闇が広がる窓の外を見て、やっと自分が睡眠をとっていたことに気付く。

「…なんだ、夢か…」

 そうホッと胸を撫で下ろしていたとき。

「なぅ…」

 びくりと背筋を凍らせる霖之助に対し、声の主である黒猫はのん気に喉を鳴らして甘えるようにすりよってきた。

「珍しいな君がこんな夜中に来るなんて」

 香霖堂に来るこの黒猫は、いつも同じ時間にやって来て、暖をとり、いつの間にかいなくなっている。
 こんな夜中に来ることは今日が初めてだろう。
 少々ショッキングな夢を見た後の霖之助にとって、この時間の黒猫の来訪は願ってもないことだった。

 今宵の闇夜のような色の毛並みを撫でていると、ふと月色の目と目が合った。
 か細いろうそくの火が頼りなく部屋を明るくする。そんな弱い明かりの中、黒猫の目はまるで昼間と見紛うほど糸状に細くなっている。
 まるで誘うような目付きにクラリと睡魔が襲う。
 そして、重い瞼を必死にこじ開けようとしたとき、橙の声が聞こえたような気がした。

『その5!これは猫又撃退法にも応用できるから。これだけは絶対に守ってね』

 しかし、目の前の黒猫が猫又とは思えない霖之助にとって、頭で考えてはそれを否定していた。橙が心配のしすぎなだけ。遊びの度が過ぎるだけ。そう考えるのだが、頭の隅では黒猫を疑っている自分もいる。まさかと思いながら、その考えを否定しようと眠気を襲う頭を振った。

「考え、すぎ…。考えすぎ…なん、だ…」
「何を考えておられたの?」

――何って橙が教えてくれたことだよ。

 そう口に出しそうになったとき、一気に眠気が覚めた。
 自分は今、誰に話しかけられた?

「…っ!」

『その5、猫さんがしゃべりかけたらもうそれは貴方を食べようとしているの。それでね…』

 弾かれた様に上半身を起き上がらせて、声がしたように視線を移す。
 そこには姿勢よく座った黒猫が一匹。鳴くかと思われた口の開閉は、間違いなく人間の声を発したのだ。

『もし喋りかけてきたら…』
「もし喋りかけてきたら…」

 不思議と頭の中で橙の言葉と黒猫から発せられる声が重なる。
 それと比例するように、黒猫の口角がニヤリと上がった。

『絶対に…』
「絶対に…喋り返したらだめ。とでも言われましたか?」
「!」

 その場から逃げ出したい衝動に駆られた霖之助だったが、すくむ足に囚われ動くことが出来ず、言葉を発せれば命の危険をも感じるため助けを呼ぶことも出来ない。一気に恐怖で背筋が凍るのが分かった。
 そんな霖之助を他所に、黒猫はゆっくりと近付く。音もたてず、一歩一歩確実に。

「猫又ならだれでも知っていることですわ。あの小娘…邪魔をしちゃって。…でも、貴方はそれでも私を追い出さずにいてくれた。追い出したほうがよかったのよ? 本当は。でも、追い出さなかった。その結果、貴方はもう私の餌食になっている。…ああ、この格好のほうがいいかしら」

 クツクツと笑い声を上げる黒い猫の四肢がスラリと伸びる。猫の顔つきは人間のものに変わり、黒い毛並みは白い素肌へと変貌していった。
 そこには真っ黒な髪をゆるく束ね、襦袢を着流した女性が座っていた。
 頭から真っ黒な猫の耳と着物から覗く二つに分かれた尻尾。瞳の色が月の色なので、この女性があの猫だったことを物語っていた。肩まで衿を下げ、豊満な胸さえもこれ見よがしに見せ付けてくる。裾から白い太ももを見せるように気だるげに霖之助の前に座る。
 それは絵にも描けぬほどの美しさで、誰しも見惚れる姿だろう。
 ただし、今の霖之助にはその色気も恐怖としか思えなかった。

「食べる…たべる…タベル…どれがよろしくて?」
「…っ」
「ああ、喋れないんでしたね…フフ。じゃあまずその唇からいただこうかしら…」

 目を白黒に瞬かせるくらいしかできない霖之助に、黒猫だった女・猫又はまるで口付けを請うように顔を近づける。
 お互い瞼を閉じることの無いその光景は、艶かしくもあり、どこか狂気が垣間見えた。
 同じ金色の目が交わるんじゃないかと思うほど近付いた時。どこからか声が発せられた。

「そうはさせないんだからぁ!」

 小気味いいふすまの開く音とともに現れたのは、黒猫を猫又と疑っていた八雲の猫又・橙。
 眉間に皺を寄せながら、霖之助と女の間に割り込み、すぐさま後ろへ退く。間の開いた空間に、女は橙の行動に苛立ちを感じた。

「まぁ。いいところだったのに…」
「ね、猫は主につっ…尽くすのが条理だ、と思うな」
「私の妖力も感じ取れなかったくせに、…と言っても自分の妖力も制御できないようであれば獲物なんて狙えないわ。ねぇかわいい猫又さん」
「確かにあなたの妖力は分からなかった…でも、今…っ! 今夜…店主さんを助けに来れたもん!」
「いきがっちゃって…足、震えてますわよ?」

 霖之助にとって、自分を守る橙の後ろ姿はなんとも頼もしいものだったが、ただ細い手足は小刻みに震え女を怖がっているのが分かってしまった。
 それもそのはず、目の前の女からはおびただしい量の妖気が発せられている。黒猫時に全く感じることが出来なかったおかげでその違いが簡単に分かった。
 殺気を漂わす女は確実に霖之助を殺そうと企む。
 橙は必死に震えを耐えながら、女を睨みつけて言った。

「と、とにかく!店主さんは殺させないよ!」
「そうなのよね。貴方が喋って下さればもうすぐにでも食べて差し上げますのに」
「だ、だめぇ!!」

 涙目で霖之助に抱きつく。橙の二本の尻尾はスカートの中に丸められ、先ほどまで耐えていた震えも今や我慢することが出来ないほど震えに震えていた。
 しかし、目だけは女を睨み続け、警戒をやめることはしない。
 あまりの必死さに、女は自分の頬が緩んだのに気が付いた。

「…あなた、猫又でしょう。まずその1で間違っているわ。10年生きた猫はもちろんだけど、10年飼われた猫が猫又になりやすいのよ?」
「え…」
「霖之助様は、私を飼ってないわ。そう…名前も付けられなかった哀れな猫又なんだから…」

 微笑ましくて緩んだ頬は、自分の言葉で寂しげな微笑に変わる。
 女を見ていた橙はその表情の変化に何かを感じ取った。
 しかし、俯いた顔が上がる頃には、どこか清清しい顔へと変わっていた。

「本当は“食べる”以外のこともしたかったんだけど、ね?」
「さっさせないんだからぁ!」

 またも必死に霖之助に抱きつく橙にクスクスと微笑むと、軽くため息を吐いて女は立ち上がった。

「……あなたがいたらおちおちこの方も食べられないわ。いいわよ、諦めてあげる」
「よかったぁ」

 黒猫として戻っていく直前、女だった黒猫が霖之助の耳元で囁いた。

「貴方のこと好きでしたわ。霖之助様」





「もう喋っていいよ」
「た、助かったよ…」

 大きく息を吐き出しながら霖之助はその場に座り込んだ。
 未だ早鐘のごとく鳴り続ける心臓を押さえながら、黒猫が去って行った扉を見つめた。
 猫又が悪さをする文献はいくつもあるが、猫自体が悪いわけではない。ただ人間のエゴが猫を悪役にしただけと霖之助は考えていた。
 その証拠に落語の『猫の恩返し』や、招き猫のように人間に福を招く猫だっている。霖之助の目の前の猫又・橙だって、悪戯こそするが悪い猫又とは思えない。
 つまり、あの黒猫も本当に自分を殺そうとしていたのかと疑問を持った。
 ただ話をしたかっただけかもしれない。そう考えてしまうのは、寒い中わざわざ香霖堂に訪れ、膝の上に暖を与えてくれた黒猫に情が移っただけといえるだろうか。

「本当によかったよぉ」
「悪かったね、君の事信じてあげれなくて」

 本当にホッとした様子で、橙は霖之助にしな垂れかかる。先ほどの黒猫のような行動に少しビクリと肩を震わせたが、それは橙の欠伸によってかき消された。

「んーん!とにかく無事だったからいいの!あんし…ふぁあ」
「こんな夜抜けに本当に悪かった…」
「いいんだよぉ…そんなの…それより…ねむ…ぃ」

 幸い寝床の近くであったため、そのまま橙を眠らせる。
 その寝顔は満足げな表情で、見ているこっちが微笑ましくなるほどだった。
 そんな子供に助けられたと思うと、いい大人が情けなく感じる。自嘲気味に微笑むと橙の頭を一度撫でて言った。

「本当にありがとう。橙」



 翌日、マヨヒガに橙がいないことに狂気と化した藍に今度こそ殺されるんではないかと思う霖之助がいるのはまた別の話。