《長雨のち…》



《長雨のち…》


 それは、梅雨でもないのに雨の降り続く春の日だった。
 辺りは薄暗く、森の木の木陰で雨宿りする僕は、ただしとしとと降る雨に視線を向けるしかない。
 頬が痛む。血のにじむ唇が痛い。
 妖怪と人間の子だからといって、こんな不幸はないと思った。
 膝を抱えようとしたら、ズボンの膝に穴が開いてしまったようで、泥と血の付いた布が妙に痛々しく見える。
 
 まるで自分の体じゃないみたいだ。
 そんなことを思っていると、赤い唐傘がふわりと頭上に舞い降りてきた。
「灰色の化け物ねー」
「……」
「灰色というより、貴方は銀色って言った方が様になっていると思うんだけど」

 そこに立っていたのは年頃の若い女性だった。
 強引に僕に傘を渡すと、満足したように霧雨の降る空の下に、飛び込んでいく。

「♪」

 僕はお礼も何も言えずに、長い前髪に隠れた光の灯らない瞳を彼女に向けると、こちらを向いた彼女の顔がほころんだ。
 空は曇っているのに彼女だけが眩しく見えたのは、金色の髪の毛と笑った顔が妙に印象的だったせいかもしれない。





 半分が妖怪で半分が人間である僕にとって、魔法の森での生活は妖怪に睨まれる事が多く、落ち着いて寝られもしない。だからと言って里で暮らすには人間の目が気になってしょうがない。
 どちらにせよ暮らせない僕は里外れのあばら屋に身を潜めるしかないのだ。元は僕の生まれ育った家なのだが、親の亡き今、人間たちによって荒らされてしまった。
 その荒れ果てた家も、ついこの間崩れ落ちた。

 そんなわけで、僕は言わばホームレス。
 魔法の森と人里の間の林に身を隠し、のらりくらりと暮らしていた。
 木の根の間で就寝し、川の水で顔を洗って喉を潤し、寒ければ木の葉で暖をとり、暑ければ木陰で涼を求めた。娯楽が欲しければ魚を釣り、無縁塚まで赴いて本等を探し漁る。
 それなりに気に入ってはいたものの、この生活の終わりはすぐに訪れた。

 里の者に見つかって、追いかけられる現状になってしまったのだ。
 僕と言う半妖は人を襲うことはしないのだが、御阿礼の子なき今は妖怪の危険度を知る由もない。確かに無理もないのだ。
 今は野菜の種を撒いたばかり、苗も育たない内に荒らせれてはかなわないからだろう。近年干ばつに襲われたばかりなので気が立つのも分かる。分かるのだが…。

 木の背にもたれると長い髪の毛が木の皮に引っかかったがあまり気にしなかった。それよりも魔法の森まで逃げ込んだときに擦りむいた手のひらが痛む。
 妖怪の血が混ざっているだけにこれくらいの傷ならすぐに治るはず。
 ギュッと握った指の間から赤い血が滲んだ。

「……痛いな」

 僕はゆっくりと瞼を閉じた。


* * *


「ねぇ。貴方、大丈夫?」
「…!」

 目の前に居たのはいつかの金髪の女性。
 雲行きの怪しい空を背後に、明るい髪色がひどく眩しく思えた。
 驚いて瞬きしてる僕が面白いのか、女性はクスクスと口角を上げて笑っている。

「まさかあの時の場所のままだなんて…お腹減らないの?」

 どうやら僕はここ最近の夢を見ていたようだ。手の平のひらの傷は随分前に完治しているし、傷の代わりに赤い唐傘が握られている。
 傘を貰いにきたのだと思い付き返そうとすると、女性は笑いながら「いらないわ」と言った。

「家に行けばたくさんあるの。気にしないで。貰ってくれる?」
「………」
「ほら、今日も雨降りそうだし」

 傘屋の娘なのかと自分に納得させる。ただでさえ雨風を防ぐのに難儀していたのだ。ありがたくいただいていくことにした。

 そこでふと思い出す。
 ならなぜこの女性はここにいるんだ?
 顔を上げると、そこには浅黄色の瞳がギョロリと僕を見ていた。
 突然のことに驚くが、女性はまるで気にしていない。そして僕の長い前髪をすくい取って尋ねてきた。

「この長い髪…わざと?」
「……あ、ああ、…切る機会がなくて…。長い間放っておいたらこのようになってしまったんだ」

 今の僕の格好はそれはそれは酷いもので、ぼさぼさの長い髪に、ボロボロの服を身に纏っているだけ。
 そのため人間と会話するのも何年ぶりで、女性が何に対して喋っているのかも分からなかった。
 人間は嫌いではないが、理由もなく襲い掛かってくるのはモラル的にどうかと思う。
 長いこと追いかけられることしかなかった僕としては、この女性と喋ることは怖くもあり、嬉しくも感じていた。
 しかし、そんな僕に対して彼女は「ふーん…」と呟くとひらりとその場から去ってしまった。

 僕は何か悪いことを言ったのだろうか。
 悪いことを言った覚えはないし、何より一言しかまともに喋っていない。
 やはり彼女も他の人間のように理由もなく妖怪(僕)を痛めつけることしかしないのだろうか。
 僕は首をブンブンと振って自分の思ったことを否定する。不思議とそうは思いたくなかったのだ。
 ボロボロな僕に傘を差し出してくれた彼女のことを信じたかった。


* * *


 そして、次の日のこと。

「……なんだい…それは」
「見て分からない? はさみ、よ」

 さも当然のように見せびらかすそれは、銀色に輝くはさみだった。
 僕はそこまで世間知らずなわけではないし、なにより生まれ持った能力によってそんなことは承知の上のこと。

「いや…それは分かっているんだが」
「私商屋の娘なの。だから大丈夫よ?」
「何が…?」
「じゃ!動かないでよ?」
「!!」

 はさみの刃がキラリと光る。その光りで思い出すのは里の人間からの暴力だった。
 やはり彼女も同じだったのか。
 そんな絶望が自分に襲い掛かり、思わず身をかがめて凶器から逃げようとしたときだった。

ジャキッ

「……?」

 それは、文字通りはさみが物を切るときに放つ音。しかし自分に痛みはない。なら、彼女は一体何を切った?

「ああ!動かないでって言ったじゃない」

 両手で顔の位置を直され前を向くと、そこには彼女の顔が近距離で見えた。それに驚いたが、それ以上に、以前の僕の視野はこんなにも明るかっただろうか。
 カーテンのような前髪によって、目の前はいつも薄暗かったのに。

「あんまり目を開けてると目に髪の毛入るわよ」

 彼女の言葉に、僕は力いっぱい目を閉じた。

「そうそう♪ そのままそのまま…」

 ジャキジャキと小気味いい音は留まることを知らず、次々と鳴り続ける。同時に頭が軽くなる感覚で僕は理解した。彼女は僕の髪の毛を切ってくれていたのだ。
 暴力ではないとわかったときの安心感は、僕の心に温かい何かを満たすのに十分なものだった。
 力んできた瞼の力を抜くと、彼女の持つはさみから鳴る音がまるで歌でも聴いているように思えたのは、その温かい何かのせいかもしれない。

「ね…目、開けて?」

 四半刻(30分)もしないではさみの歌は終わった。頭にのしかかっていた物が随分と落とされた気がする。むしろもっと別のものが落とされたようで、気持ちまで軽くなった気がした。
 ジロジロと入念に観察する彼女はウンウンと縦に振っていたが、僕の目があった瞬間首を横に捻ってしまった。

「うん!これでいい!このほうがよっぽいい! ……かしら?」
「…どういう意味だい?」

 あいにく今の自分の容姿を確認する術を持たない僕にとって、その行動は不安要素だった。
 彼女は「ああ…」や「うん…」などの歯切れの悪い言葉を言うだけで感想を言ってはくれない。
 しまいには逃げるようにその場から立ち去ってしまい、その日はそれで終わってしまった。


* * *


 そして、次の日のこと。

「なんだい…それは?」
「見て分からない? めがね、よ」

 さも当然のように見せびらかすそれは、銀縁の眼鏡だった。
 もう一度言うが、僕は世間知らずなわけではないし、なにより生まれ持った能力によってそんなことは承知の上のこと。

「僕は目が悪いわけでは…」
「そうね。悪くないかもしれないけど目付きは悪いわ。これでその目付きの悪さもカバーできる、はず!」

 彼女は僕の有無も聞かずに無理やり眼鏡を装着させる。
 驚いて目を瞑っていたが、鼻の頭・耳にかかる感覚によって目を恐る恐る開けてみた。

「うん!これでいいわ!今度こそ!」

 つまり、彼女なりに僕の身なりを改善させていたのだ。
 少々無理やりな感じであるが、それが彼女の優しさと思えば嬉しく感じる。

「…その…、あり…がとう…」
「どういたしまして!」


 そのときから、僕と彼女はよく喋るようになった。
 彼女が危害を加えることは無い。そう分かったせいもあるが、彼女の言葉は妙に落ち着くのだ。

「…僕は、里が干ばつに襲われたときもピンピンしてたから干ばつの原因だと思われたんだよ」

 僕が今話しているのは、つい最近起こった干ばつのことだ。自分の体に流れる妖怪の血により、飲み食いが必要の無い体は飢餓や水不足に特に苦しむこともなく。平然と里の周りを闊歩できていた。
 もっとも、普段なら里の周りなど闊歩することはない。最近の傷は闊歩していたがために、里からの返報とも取れる。
 もちろん、ここ数日は梅雨が来たかと思われるほどの雨に見舞われ、里はとっくに水不足から脱している。今日もどんよりとした雲が上空に浮んでいる。夜あたり降るかもしれない。
 1人空を見上げていると、ニヤニヤと口元を上げながら彼女が言った。

「ふーん。それで、貴方干ばつで苦しむ里にお酒配っていたのね」
「…なんで君が」
「朝、貴方が家々の水桶に酒を入れているのを見ちゃった」

 普段里の周りは愚か里に踏み入れることは少ない。が、偶然手に入れたものにより、死人さえ出そうな干ばつを少しでも緩和しようとしたちょっとしたお節介だ。
 だれも見ていないのをよく確認しながら配ったのに、見られていたと知ると一気に恥ずかしくなる。

「………あれは…ただの気まぐれだよ。偶然伊吹瓢が落ちていて…伊吹瓢っていうのは酒のつきない瓢箪のことなんだが…。…その…里で水不足って…ないよりましだと思って…」

じー

「さ、酒なら腐りづらいし…。…火にかければそれなりに使えるし…」

じー

「つ、使いすぎたのか、その一件以来瓢箪の大きさ分しか酒が湧かなくなったよ。その瓢箪もいつの間にか消えてしまって…その、あ、の………そんなに見ないでくれ…」

 恥ずかしくて饒舌になる僕を彼女は見つめてくる。顔に血液が集まるのを感じながら、思わず顔を隠してしまった僕を見て彼女はクスクスと笑った。

「ふふっ! 貴方優しいのね」

 彼女の笑った顔は、僕には眩しすぎる。日の光を最近見ていないせいか、太陽とも取れるほど眩しい。
 何も言えず顔が赤くなる。

 里の人間から咎められる言葉や、血の滲む迫害しか受けていないため、僕の横で笑ってくれる彼女がまるで神の化身とも思えてしまうほど。

「貴方、自分は災厄の人間じゃないってちゃんと里の人に言ったら?」
「…僕は人間じゃない。…半分は妖怪なんだ」
「まぁ!貴方半妖?! 初めて見たわ」
「…そうそういないみたいだからね」

 里の情報があまいのか、それとも彼女の情報があまいのか。
 どちらにせよ里の周囲に住む妖怪(僕)はとても危険な人物とされているらしい。
 里の人間からの迫害はすべて逃げているか受けているかなのに…。早く御阿礼の子は生まれないだろうか…。

 ため息を吐いていると、彼女の視線はずっと僕のほうに向いていることに気が付いた。
 他意はないだろうと思うが、正直見られるのは好きじゃない。むしろなぜか彼女に見られていると無性に恥ずかしくなる。

「…だからって、ジロジロ見ないでくれ」
「そんなつもりでもないんだけどなぁ。でも、分からないわね。半分は人間なのになんでこう追い出すようにするのかしら」

 彼女は里の人間から僕がどう思われているか知らないのか。
 僕自身正確に理解していないが、最近の妖怪事情と人間事情がよくないことから、僕が厄介な妖怪だと思われているのは確かだ。日々の迫害からみればそれは一目瞭然だ。
 これでも少しは治まった方だ。僕が幼いことはもっとギスギスしていて、平然と生活することすら危ういくらいだったのだから。

 ……幼いころを思い出してしまったためか気分が悪くなってきた。
 彼女の言葉で少し気が楽になったように思えたが、まったく…。コレくらい耐えなくてどうする。
 まだヒトとして出来ていないのかもしれないな。

 その日はそのまま険悪な雰囲気になってしまったため彼女には帰ってもらった。
 もう少し話してみたいと思ったが、気持ちがざわつく状態で話していては彼女にも悪い。
 また、明日来てくれるだろうか…。


* * *


 しかし、次の日彼女は来なかった。
 いつも暇なときは無縁塚で拾った本などを読み漁っていたがその日は何も読む気が起こらなかった。
 むしろポッカリと胸に穴が開いたように何かをしようにも気力が起きない。
 ただ思うのは彼女のことで、でも思うと不思議に胸が痛んだ。
 穴が開いたような気がするのに、ちくりと痛むことがおかしくて胸に手を当ててみると納得する。

「ああ」

 それもそのはずだ。胸の辺りの服がボロボロで衿の形もままならない。
 衿の破れたところからひんやりとした風が入って寒気がした。
 だからか。と結論付けてその日は昨日の夜から振っていた雨雲をぼんやりと見ることにした。


* * *


 次の日。雨は降っていないものの雨雲が上空を覆っていた。

 彼女は来た。
 嬉しさが溢れてきたが、彼女の顔を見た途端思考が止まった。

「…どうしたんだい…その痣」
「ん? これ? なんでもないわ」

 赤々と腫らせる頬は見ているこっちが痛々しく見える。
 心配する僕を他所に、彼女は手に持っていた箱を地面に広げ適当に切られた布を取り出した。

「今日は貴方に服を…って思ったんだけど、無断で持っていったから怒られちゃって古布しかもらえなかったわ」
「もしかしてその痣って…」
「平気よ。これくらい。それより針と糸あるけど縫おうか?」
「いや、そこまでよくしてもらうのは悪いよ。自分でやる」

 上半身裸になりながら、既にボロ布と化した衿に彼女の持ってきた布を当てて慣れた手つきで縫っていく。
 横で見ている彼女は「へー」「ほー」と言いながら、僕の指先をジッと見ている。

 ……緊張する。

「器用ねー」
「…ひとりが長かったからね。これくらいはできるものさ。大体、妖怪と言っても僕は戦闘に適したヤツじゃない。道具の名称と用途がわかる程度の能力なんて…どこで活用するか僕が聞きたいくらいだよ」

 あまり自慢にならない能力なのでなんだか恥ずかしい。が、彼女は僕の能力を聞いた途端目を輝かせた。

「それすごいじゃない!ぜひ店に欲しい人材だわ! ね!うちにおいでなさいな!」
「…え?」

 突然の勧誘は僕を動揺させるだけのものだった。

 『うちにおいでなさいな』?
 彼女の家に? 僕が? 待て、店?

「父さんは少し気難しい人だけど、才能がある人にはたとえ他人だろうが身内だろうが厳しく、でも親身になって教えてくれるわ!」
「でも…僕は…」

 半妖。それは隠しようも無い事実。しかも御阿礼の子がいないためにどう思われているかも怪しい。
 そんな人間かぶれを里に、店に、自分の家に誘うなど、その家(店)を異端に見せるだけだ。

「里の目が何よ!稗田の子がいない今、自分から無害ですって言わないと何も始まらないわ!」
「だけど…」
「ね!」

 彼女はとても熱心に僕を誘ってくれる。
 視線は真っ直ぐに僕の目をとらえ、太陽色の瞳に僕が写った。
 ありがたい話だ。とても。だが…。

「とてもありがたい話だけど、僕は…だめだよ…。僕がいたら店が衰退するよ」
「私、手伝うわ。貴方を危険な妖怪だなんて言わせない! だいたいうちの店は貴方1人のためにつぶれるような柔な店じゃないわ!」
「でも…」
「貴方は自分を過小評価しすぎよ!ちゃんとものの分別ができるし、立派な能力があって、優しいし…! っあ、えっと…」

 どこか慌てて言葉を捜す彼女に、僕は言った。

「……僕は、いつもみたいに話をするだけでいいんだ…。それじゃだめかい?」
「…でもっ貴方なら大丈夫なんだから、絶対…! だからっ…!」

 彼女の顔は必死だった。請うような目に戸惑ったほどだ。
 どうしても僕が里に行かなければいけないような、そんなことを言いたいような表情なのだ。

「考えておいて!」
「あっ…!」

 彼女は僕からパッと離れ、帰路へきびすを返す。
 追うことはなく、僕はただ彼女の背中を見送ることしかできない。

 彼女の誘いはとても甘美なものだ。うまくいけば里の人間から迫害を受けることがなくなるかもしれない。
 でも…、やはり僕は怖いのだ。今まで迫害しか受けていないために、人間と関わることができるか不安なのだ。
 彼女だったら、彼女とだったら耐えることができるだろうか…。
 そう思い顔を上げると、空が泣き出したように雨を降らした。


* * *


 その日の夜。
 彼女と別れてから降りだした雨は、未だしとどと降り続けていた。
 家を持たない僕は彼女から貰った赤い唐傘を差しながら大木の下で座りながら夜が明けるのを待っていた。
 寝ることもいらない体はこんなときはとても役に立つ。
 雨の日は横になって寝ることが出来ないし、本は濡れてしまう。ただぼんやりと太陽を待っている。

 ふと脳裏に彼女が思い出された。
 僕にとっては太陽のような存在である彼女は、今はどんな夢をみているのだろうか。そんな風に思っていたせいか、目の前に彼女がいるような幻想を見た。
 彼女は傘も差さずにずぶ濡れで立っていた。太陽を思わせる笑顔もなく、ただ無表情でこちらを見つめている。

「ねぇ」
「……!」

 幻想ではない。まさに彼女が目の前に立っていた。
 驚いて声をかけようとしたが、声は彼女から発せられた。

「今夜、泊めて」
「…………は?」
「父さんとケンカしたの。もう帰りたくない」

 ずぶ濡れの彼女はそのまま僕にしな垂れかかり、そう呟いた。
 肩に彼女の濡れた吐息がかかり一気に心臓が跳ねる。彼女の背中に手をかけようとしたとき、僕の理性がそれを拒んだ。

「き、君を…泊まらせる事はできない。帰るんだ」
「………」

 絶望したような視線。背中の変わりに手をかけた肩は驚くほど冷たかった。風邪を引きにくい僕と違って彼女は人間。早く家に帰らせなければ…。

「僕は親を早くに亡くした。孝行をしたくてもできない…。君には僕みたいな思いをして欲しくない」
「別に…私は………」

 正直説得するには安い言葉だと思う。しかし、暖を取れる家を持たない僕の傍よりも、彼女の家の方が数倍いいに決まっている。
 僕は彼女が病に伏すことなど望まない。お願いだから帰ってくれ。

 昼間彼女が見つめてくれたように、今度は僕が彼女を見つめる。僕の意図が通じたかどうかは分からないが、彼女はどこか諦めたように帰路へと戻る。

「わかった…。私帰る…」
「唐傘…使って」

 振り返る彼女に赤い唐傘を差し出す。そんな僕に彼女は寂しげに微笑んだ。

「これ、貴方にあげたつもりなんだけどね」
「…っ! じゃあ明日返しにきてくれ。そのときまでに決めるから…君の言うとおり、頑張ってみるのを…」

 そのときの彼女の顔はひどく泣きそうだった。少しでも喜ばせたくて言った言葉に、彼女の震える唇が動いた。

「           」

「え?」
「ううん。なんでもない。じゃあ、ね…」

 彼女は無理やり笑顔を作って手を振ると、唐傘で顔を隠しながら帰っていった。
 雨音で聞き取ることが出来なかったが、唇の動きは確かに言った。

『……明日じゃ…遅いよ…』

 何が?
 それを聞くには既に遅く、彼女が持った赤い唐傘がもう遠くにあった。
 僕はどこか釈然としないまま夜が明けるのを待った。


* * *


 次の日。曇り。
 彼女は何事もなかったように僕の元にやってきた。
 体調もそう悪くなさそうだ。

 僕はそれよりも昨夜の彼女の言葉が気になってしょうがない。聞き出そうと思っても、勇気が足りないのか核心を聞くことも出来なかった。

「昨日は…その、……風邪を引かなかったみたいだね」
「うん!大丈夫!体は丈夫なの。それより突然ごめんね。昨日のは気にしないで。貴方の言うとおり孝行することにしたから! …それで…コレ、返す」
「…ありがとう」

 唐傘を返す彼女はどこか変だ。よそよそしいというか、何か隠しているような…。
 彼女は手ぶらになった手を空に投げ出してそのまま伸びをする。

「私もし子供を生んだら、寛大な母親になれる自信があるわ」
「寛大というと?」
「私の家は商屋って言ったでしょ? ちょっと大きなとこで…。でね?もし男の子だったら無理に継がせないし、女の子なら何をしても許してあげるわ」
「…自由奔放なお子さんになるだろうね」
「女形の男でも男勝りな女の子でも私は受け入れる自信があるだけよ」

 脈絡のない話に少々困惑するが、僕は少し考えた。里から忌み嫌われていた僕に近付き、さらに話しかけ、あまつさえ家(店)に来いと言った変わり者だ。
 もしかしたら彼女は僕の知らないところで親からのお怒りを受けていたかもしれない。彼女の頬に出来た痣がそれならば、彼女が親となった暁にはそのようなことをさせない。つまり子供の考えをすべて受け入れることになるだろう。もしも彼女が母親となるときあれば、子供の敵はおそらく彼女の夫、つまり子供の父親が子供にとって邪魔な存在になるということだ。
 彼女の夫になる人はさぞ大変だろうと思いながら、同時に胸が痛んだ。
 彼女の将来の絵に僕の姿が無いことがとてつもなく寂しいのだ。絵の中に僕が入るには、僕はどうしたらいいだろう。そう考えたとき、彼女が呟いた。

「……それで…それで、たとえ半妖が好きな人って言っても胸張って受け入れるわ」
「それって…」

 将来の絵の中に入る方法が目に見えたとき気付いた。僕は彼女が好きなのだと。
 彼女の呟きは、正真正銘僕と同じことを考えたと言える。
 高鳴る心臓とともに嬉しさがこみ上げる。

「僕は…僕も…っ?!」

 この気持ちを伝えるべく口を開けると、彼女の人差し指がその口から出るはずだった言葉を止めてしまった。

「あのね…」

 そしてゆっくりと呟いた。

「こういうのマリッジブルーっていうのかしら、ね?」
「…?」
「私結婚するの」
「!」
「昨日正式に決まったわ。お父さんの御弟子さんと。 別にその人が嫌ってわけじゃないわ。いい人だし。 …ただ、なんとなく親に決められた結婚相手が嫌だっただけなんだけどね。まったく、霧雨道具店繁栄のためって言われると私も弱いってことが昨日分かったわ」
「っ!」

 彼女の『遅いよ』の意味が分かった気がした。このときばかり昨夜の自分を呪いたくなる。
 彼女の笑顔は出合った時のように眩しい。この笑顔がもう他人のものだと思うと、このまま連れ去ってしまおうかと自分の中の黒いものが唱えた。さすがに理性がそれを拒んだが、今度は白いものが気持ちだけ伝えておけと呟く。
 手に力を握り締め、覚悟を決めて彼女に対峙する。

「っ…」
「ん?どうしたの?」

 そして僕は気付いた。僕は彼女の名前さえも知らないことを。
 僕は自嘲気味に微笑んだ。
 所詮僕に彼女は高嶺の花ということだ。

 さて、結婚か。僕から彼女に与えることが出来るのは少ない。僕が持っているものは自分自身と君への恋心くらいしかないのだから。
 そして僕は考えついた。

「…僕に名前をくれないか?」
「え?なに突然…っていうか、もともとあった名前はどうするの?」
「これは真名だ。他人に呼ばせることは自分を拘束させるのと同じなんだよ。だから、僕が人里にも顔向けできるような名前が欲しい。…君から貰ってはいけないかい?」
「いけなくない…けど…」
「戸惑うのは無理ないな。“付けさせること”は結婚祝いだ。僕は何も持っていないからね。名誉あることだろう? それに里の人にも、霧雨の人にも……君にも名前を呼ばれたい」
「それって…」
「かの有名な霧雨道具店だったら、僕の能力も伸ばしてくれそうだ」

 本当は君への祝いではない。僕への祝い品。
 君を好きになり、人間らしさを教えてくれた君にはもっと別の形で感謝の気持ちを伝えたい。
 いつ渡せることができるかわからない。もしかしたら君の死後かもしれないし、君の子供に伝えるかもしれない。君の時間は僕の時間に比べると短いんだ。
 だから今は名前だけ君に貰いたい。
 たとえ名無しの権兵衛でも、一太郎でも構わない。きっとそれが僕から君への最初で最後の――…。

「り、りんのすけ…」
「それが僕の名前かい?」
「…うん…うんっ!貴方と初めて会ったのが長い霧雨の最中だったから“霖(ながあめ)”で霖之助!うん!これなら霧雨にも属していると思わない?」
「霖之助…うん。気に入ったよ」
「よかった!」

 ここだけの話、君に名付け親になってもらったのは、最初で最後の君への意地悪だ。
 好きにならせた代償と、名付け親になったことで僕を忘れさせないため。
 でもいいだろう? 本当は頬をなでたり、抱きしめたりしたいと思っていたんだ。

 太陽のような彼女の瞳に、本物の太陽の光が降り注いだ。

「雨、あがったみたいだね」
「そうね」

 やはり日の光の下で見る彼女は眩しい。
 名付け親となった彼女を想うこの気持ちを何と言おう。

「僕は君の名前も呼びたいんだが…」
「あ!そういえばまだ言ってなかったわね。私は…」

 今日初めて彼女が心から笑った気がした。それはそれは眩しくて、目を開けていられないほど。

 もっと近くで見れば大丈夫かもしれない。僕は彼女の腕を取った。
 そしてまぼろしなのか、幻想なのか、僕の気持ちを察したように彼女が僕を抱きしめた。人妻である彼女には信じられない行動だが、正直嬉しく思うのも確か。でも、これでは顔が見えない。眩しくて見れなかった彼女の顔はどんな顔だっただろうか。
 僕を恋焦がれさせた彼女は、猫毛の金髪を揺らして、笑顔が印象的な……

「こ、ここっこ…こ香霖?」
「………魔理沙、…か?」

 すまない間違えた。

 と思わず言ってしまったのが失敗だったのだろう。

「だっだれと間違えてんだ!!」

 魔理沙はワナワナと震えだし、顔を真っ赤にすると部屋の中だと言うのにホウキにまたがって、そのまま天井もろとも空へ舞い上がった。

「香霖のアホ毛ーーーー!!!」

 ワケの分からない捨て台詞に呆気取られつつ、天井に開いた風穴から見える青空に呟いた。

「…君の教育方針は寛容すぎるよ」

 それでも君の娘である魔理沙を見守ることはけして嫌ではない。
 それは君のおかげか、それとも魔理沙自身だからか。
 それを確かめたくなったわけではないが、僕は久しぶりに里に行くことにした。