《東方女学園-4時間目-》

 昼間から花火が打ち放たれ、同時にピストルの音が鳴り響く。
 スピーカーからは大昔の有名な音楽家が手掛けたスピード感ある音楽が流れ、広い校庭には無数の人々が群がっていた。
 生徒たちはいつものスカートではなく、短めのハーフパンツを白いポロシャツから覗かせながら楽しげに声を上げる。

 それもそのはず、今日は、東方女学園の体育祭なのだ。

「東方女学園最速は私のものだぜ!」
「記事を探し求め走りまわった私の足は早いですよ~」

 スタート地点に霧雨魔理沙と射命丸文が並ぶ。短くも長い100M走である。
 足が速いことに定評のあるこの2人の決戦は、学園中の注目の的である。
 観客席を越えんばかりの応援の数に、屋根のある教員席に座る森近霖之助はぼんやりと「すごいな」と呟いた。すると、突如頬に冷気が触れた。

「わっ! …霊夢」

 そこには、冷たそうなお茶を持った博麗霊夢が立っていた。

「ふー まったく。もうすぐ夏が来るっていうのに体育祭なんて…暑いじゃない」
「春は運動をするのに適した季節だからだよ」
「もう初夏よ。それに、秋なら“スポーツの秋”っていうのになんで…」
「霊夢…君は暑かったからここに来たんじゃないのかい?」

 冷たいお茶を霖之助に渡した霊夢だったが、本人は自分の水筒から湯気の出るお茶をコップに注ぎズズッと飲んだ。初夏の日差しが痛いとも感じる中でのその光景は異様な情景だった。
 教員席はテントの下にあり、幾分涼しいと思っていたが、霊夢のその行動で体感温度は上昇せざるおえない。

「…紅白は私の象徴なんだから、こう易々と使ってほしくないわ」

 東方女学園体育祭は、クラス内を紅白2つに分け学年を通して対戦している。
 どうやら霊夢はそのことがあまり気に食わないようだ。
 霖之助としては、ただ乾いた笑いを横でして、冷たいお茶を一口飲むことしかしない。気温上昇のせいか霊夢の(お茶の)熱気か、お茶は思ったより冷たいとは思えなかった。

「魔理沙と文…あれどっちが勝ったのかしら?」

 霊夢との会話に気を取られている間に、魔理沙と文の対決は早々に終わった。 …が、まさに風のように速かったため勝敗がつけづらいとの判定に至ってしまったのだ。
 文と魔理沙は審査員に詰め寄り自分が先だったと口論しているのが見える。
 霖之助は「うーん…」と気だる気に呟いて考えた。

 どこの部活にも属していない魔理沙だが、その身体能力は群を抜くものである。
 運動神経がずば抜けており、どんなスポーツでも簡単にやり遂げてしまうのだ。
 そのため、休日は他部活の助っ人を務め、東方女学園でも有数の名が知れている人物とも言える。
 
 対して、新聞部に所属する文も負けず劣らず足が早く、ついでに筆も速い。
 事件と言えば新聞部のために北校舎から南校舎までものの数秒で往復したという伝説を持っていたりする(…真意は謎に包まれているが)。ただ、確かに毎日学園内を走り回っているところを見るこが多いため、足が速いというのは周知の事実なのだ。彼女もまた、学園内の有名人と言ってもいいかもしれない。

 ここまで考えて霖之助はもう一度ぬるくなったお茶を一口含んだ。
 そして興味のなさそうに

「どちらでもいいんじゃないかな」

 と呟いた。

 もっとちゃんと考えてよ! と文句が出てくると思えば、霊夢も湯気の立つお茶を一口含んで

「それもそうね」

 と言った。


 まったりと時間が進む。
 あともう一つ競技が終われば昼食にありつけるというもの。
 もう一度お茶を飲もうとコップに口を近づけたとき。

「森近先生!何やってるんですか!次は貴方が走るのに!」

 銀色の長い髪を揺らしながら、体育教師・藤原妹紅が慌てた様子で駆け寄ってきた。

「え? 藤原先生、僕は次の教員100M走は出る予定ないんですが」
「慧音先生が捻挫した生徒を病院へ連れて行ったんだ。代わりで走ることを伝えてくれと博麗に…」
「……あ」

 忘れてたわ。とポクッと手を合わせる霊夢を叱ることなく妹紅は霖之助の手を引っ張って入場門まで走り出した。


* * *


「うわ!もこセンセイVSけーねセンセイだったのに、森近センセイが走るよ!」

 ある生徒の一言で、ワッと湧き上がり黄色い声援が飛ぶ。
 女生徒にはない男らしい(?)態度を見せる妹紅に憧れている生徒は少なくない。

 「せーのっ もりちかせんせーがんばってー!!」なんて声も、妹紅先生に闘志を燃やすために放たれているものだと霖之助は信じている。
 さすがだな。と霖之助は思っているが、その声援の6割は自分に送られているとは思えない鈍感な本人は、力なくその場に立ち尽くすしかなかった。

「もこセンセーに100円!」
「大穴な森近せんせい…でもなぁ…」
「じゃあもこセンセに私200円出す!」
「コンパスの差で森近センセー!決まり!」
「はいはーい♪もこセンセー対森近センセの賭け金はこっちね!」

 先ほどの文と魔理沙の熱戦を見たせいか、妹紅と霖之助の戦いにはトトカルチョまで起こる始末。
 注意する気にも起きないその声援は、霖之助にとっては複雑な心境でしかない。
 はぁ…とため息をついていると、そわそわとこちらの様子を伺っていた妹紅は口を開いた。

「まぁ…賭け事はよくないとは思うが…純粋に勝負をしたいと思う…」
「藤原先生…」

 男性対女性という不利な状態な中でも真剣に勝負を挑む姿勢に、素晴らしいスポーツ精神の考え方だと関心をし、嫌々参加したように思った自分が女々しくて情けなかった。
 インドア派な自分でも、持てる力を出さなければと、小さな闘志を燃やす横で、妹紅は頬に朱を滲ませながら呟くように言った。

「……で。…そのぅ…あれだ…私が勝ったら…あの…な、名前で呼んで欲しいなぁ…と」
『競技番号12。教員100M走に参加する先生の入場です』
「え? すみません。放送で聞こえなかったんですが…」
「いや!なんでもない!もしこの勝負に私が勝ったら言うことを聞いて貰おうと!!」
「今さっき賭け事はよくないって言ってませんでした?!」
「ととととっととにかく!男だろうが負けないぞ!」
「あんまり得意じゃありませんが、藤原先生に笑われない程度に頑張ってみます」





 スタートラインに2人が並ぶ。
 100m先には白いテープが張られ、生徒からの歓声が耳に痛く感じられた。
 『位置に着いて』の声にスタートダッシュの用意をし、ピストルが鳴るのを待っていると、霖之助の耳に泣き声が聞こえてきた。

「ふぇ~んっ」

 視線だけを声の方へ見ると、そこには先日会った小等部の生徒が高い木の枝にぶら下がっているのが見えた。

「ふぇ~んっ 下りられないよぉ」
「橙! そのまま手をしっかり持ってるんだ! 今ハシゴを持ってくるから!」

 橙に気付いているのは、藍だけであり、あとの教師・生徒はこちらの競技のほうに夢中で気付いていない。
 藍が慌ててその場を離れると、橙は心細そうにめそめそと鳴き始めてしまった。枝を必死に持つ手は赤く、橙の顔は涙で濡れている。

「……」
「…? 森近先生?」

 明後日の方向を見つめる霖之助に気付いた妹紅であったが、耳に響くピストルの音が鳴ったために2人は走り出した。
 ゴールに向かって走る妹紅。ゴールに向かわずに走る霖之助。それは同時だった。

「っえ?! 森近先生っ?!」

 突然のことに慌てるのは妹紅だけではなく、観客全員が目を見開いた。
 そして、そこでやっと小等部の生徒が危険なことに気付いたのだが、枝はめきめきと音をたてて橙を地面へと落としてしまった。

「っきゃぁあああ!!」

 生徒の悲鳴に、思わず目を背けた人間は少なくない。
 シンと校庭は静まり、砂埃で様子を伺うこともできない。それは生徒の最悪の状況を髣髴させるほど。
 砂埃がはれ、皆が身を乗り出して様子をみようとする中、情けなく声がした。

「いってて…」

 霖之助は尻餅をついたように上向けであり、頭を打ったのか後頭部を撫でている。
 そして、霖之助の腹部には、気を失う橙が、ほぼ無傷でそこにいた。
 その様子に観客は安心し、同時に喝采が校庭に響いた。

「大丈夫ですか?!」
「僕は大丈夫…この子は…」
「すぐに保健室に行こう!!」
「はっ?!ちょっ?!まっ!!」

 慌てて駆け寄った妹紅は、かすり傷程度の霖之助を、気を失った橙もろとも抱え保健室へ走ってしまった。

 生徒・教師は小等部の生徒(橙)が無事であったことに本当に胸を撫で下ろしていたが、同時に今あったことを反芻していた。
 少女のピンチに駆け寄って助けた様はまさに童話の中の王子様。
 賭け事のことなど忘れ、今の少女たちの話題は霖之助のことでいっぱいだったことを、霖之助は知る由もない。


* * *


 放り込まれたように保健室に入り、まずは橙をベッドに寝かせる。
 おそらく頭を打ってはいないはず…と、確認してから、次は自分の傷でも消毒だけでもしておこうかと救急箱を棚から出そうと思ったが、荒い息遣いが止まない妹紅のほうが重篤のような気がしてならなくなった。

「そんな急がなくても…」
「はぁーっはぁーっはぁーっはぁーっ」

 さすがに青年と少女を抱えながら全力疾走すれば、体育教師である妹紅でもしんどいらしい。
 声にならない息遣いに苦笑しながら、霖之助は妹紅の汗を拭こうと、たたんで置いてあったタオルを差し出した。

「…えっと…とにかくありがとうございます。この子も気を失っているだけだったし」
「はぁ…っいえ…それより森近先生の顔に傷が…」
「おや…」

 やっとのことで整ったところで、妹紅は霖之助を急いで保健室に連れてきた理由を思い出していた。かすり傷程度の怪我なのだが、その場所が顔だったのだ。
 妹紅は急いで消毒液を見つけると、綿に大量に付けて霖之助の傷に塗りたくった。

「あたたたたた!!!」
「ハッ! す、すまない! 早く直さないと跡が付くんじゃないかって…」

 霖之助自身大した問題ではないのだが、女性からしてみたら顔に傷を作るなど生死に値することなのだろう…と、霖之助は結論付けた。
 今度はちゃんとする。と呟いて妹紅は大人しく傷に絆創膏を這ってやる。目を瞑ってその行為に甘んじていた霖之助を見つめながら、唇を見つめていた自分を叱咤した。

「…っ勝負は完全に私の負けだ。勝ち負けより生徒の安全を優先する…それが教師としての当然のことなのに…」
「え? ああ。どちらにせよ僕は負けてましたよ。あまり体を動かすのは得意じゃないし、運動が得意な人が羨ましいと思いますよ」
「っ!えっと…!あの…私は、私が負けと認めたからには約束は守る…。森近先生の言うことを何でも聞く。…何をして欲しい?」
「はい?!」
「べっ別に今度飲みに行こうとか、休みの日のドライブでも…なんなら私のピーピーピーでも…!」

※機械音はご想像にお任せいたします。

「いやいやいや!何言ってるんですかっ?!」

 言った本人でさえ顔を赤くした台詞に、霖之助が焦らないわけがない。迫る妹紅から一歩下がると、今にも泣き出しそうな目で見つめながら言い放った。

「わ…わわ私は本気だ!だ、ダメなの…?」
「えっと…」

「ダメです」

 言葉に詰まった霖之助の代わりに答えたのは、保険医だった。

「八意先生!」

 八意永琳。小・中・高等部がある東方女学園にただ1人いる保険医。
 大勢の生徒の身体的ケアはもちろん、メンタルケアにも長けている、いわば実力のある教員の1人である。
 実は生徒を薬物試験の実験台に使っているだの、実は影の権力者であるなど少々黒い噂はあるものの、保険医としての技能はこれ以上ないといわれているほどだ。

 そんな永琳に、妹紅は乱暴に言い放った。

「出たなニートの保護者め!」
「うちの姫様をそうゆう風に言わないで下さる?」
「はっ!本当のことを言って何が悪い!」
「今はそんなこと言ってるわけじゃないわ。あなた森近先生に何しやがんだって言いたいの」
「ぐぐぅ…保険医たる人間の言葉じゃないじゃないかっ?!」

 双方ともにいつもは温和な性格なのだが、どうも2人が揃うと口論をし始めてしまう。と、いうのは以前東方女学園新聞部の記事で読んだことがあった霖之助だったが、いつもとは異なる2人の態度に呆気に取られることしかできないでいた。

「う…ん? ここは…?」

 2人の口論によって、今まで気絶していた橙が意識を取り戻してしまった。
 霖之助は気付いた。教育上、今の2人の会話はあまりいいものではないことを。

「あの…生徒(橙)が起きましたし…」
「とーにーかーくー…。何?飲みに?ドライブ?ピーピピーピー?」
「わっ私はそこまで言ってない!!」

※機械音はご想像にお任せいたします。

「そんなことしたいなんて…今後一言でも喋ってみなさい…。あなた職場変わるから」
「なっなにぃっ?!」
「森近先生!あなたも黙ってないで何かっ…!!」

 そこには、霖之助はもちろん気を失っていた橙までもいなくなってしまった。
 生徒が目を覚ましたことも気付けなかった2人の前に、橙を置いてしまっていてはいけないと判断した霖之助は橙をつれて校庭へと戻っていったのだ。

「逃げられた…のね。まぁいいわ。この際きっちりくっきりはっきりしようじゃない…」
「ふん…なんのことだか…でも、あんたんとこの居候のことだったらどんな悪口だって言ってやろうじゃないか」

 教師2人はむしろ霖之助がいなくなったことに安心さえしていた。なぜなら2人の口論は今始まったばかりなのだから。


* * *


「せんせい?なんで私の耳をふさぐの?」

 外に出てもなお霖之助は橙の耳をふさいだまま歩いていた。
 保健室の窓から聞こえる暴言が聞こえなくなるまで歩いていこうと決めていたのだが、思いのほか遠くまで響いていたためにいつまでも耳をふさぐことになってしまったのだ。

「…いや、すまない…。とりあえず君の保護者のところに送ろうと思って…」
「あ!藍せんせー!!」
「橙!よかった…怪我はないか?」
「はい!」

 藍と橙はまるで永遠の別れから帰還した母子のように抱き合った。
 よく見ると藍は汗まみれであり、少々目に涙を溜めている。
 そこまで橙を心配していたのだろうと思い、2人の様子をまるで物語を見ているような錯覚さえするほど見とれていた。
 そんな中、橙が霖之助に指を差しながら言った。

「あの先生が助けてくれたんです!」
「…森近先生が? …ありがとうございます。このお礼はどうしたら…」
「いえ、気にせず…」

 深々と頭を下げる藍に、慌てて手を自身の前で振る。
 気にしないでと説得していると、遠くの生徒の集まりの中から声がした。

「らーん!B組の点呼済んだの~?」
「あ、紫せんせい!」

 B組担任の八雲紫の声に、副担任である藍は慌てて「はい!ただ今!」と返事をした。

「すみません!橙!お礼を」
「森近せんせいありがとう!」
「では!」

 急いでB組へ走り出した藍は、このお礼はいつかします!そう言い放った。


 そして教師日誌にこう書いた。
 
 とりあえず明日は筋肉痛だろう。